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8月1日に、墨田区まち見世2010「墨田区在住アトレウス家」という、摩訶不思議な催し物を見に行った。

催し物、という言い方がいいのか、インスタレーションという言い方がいいのか、パフォーマンスという言い方がいいのか、よくわからない。墨田区でかつて実際に人が住んでいた家屋が、アガメムノンやらエレクトラの血で血を洗う復讐の物語の舞台であった、という、あからさまに無理な設定を、あえて観客に「了解」させた上で、事前に用意された、幾つかの仕掛けが作動、観客は、その仕掛けの「証人」として立ち会う(立ち会うように仕向けられる)。

これの感想を書きたいと思いながら、あれやこれやに追い立てられてできずにいた。さわりだけ書いておくと、二つの理由で、とても刺激的だったのだ。

まず、海外の劇作家の研究なんぞを専門にしている立場として、この「墨田区在住アトレウス家」には、日本における「西洋演劇」「翻訳劇」というものが背負ってきた「無理」に対するなんともいえない優しさと憐れみと、そして、その「無理」がはらんできた強いひずみをあえてさらそうとする、強力な改革意識のようなものを、感じたということ。

もうひとつが、昭和時代の民家の家屋をそのままパフォーマンスの場として用いるという発想において、2003年におこなわれたこれもまた奇妙なプロジェクト「ikkennya museum」 (現「おやつテーブル」 のまえだまなみ(前田愛実名義で出演)が中心的企画者としておこなわれた)と、奇しくも起点を同じくしていながら、アウトプットのあり方が、それぞれにまったく違っていたこと。この差異の正体を見極めるキーワードとしておもいつくのが、「ことば」と「からだ」、「川」と「池」、「男」と「女」、「想像」と「妄想」、「夏」と「冬」……。な~んて、本気で50枚くらいの論文書きたくなるような、超・刺激的なコントラストが、この二つのパフォーマンスの間に、見えたこと。いや正確には、この二つのパフォーマンスを見た私の頭の中に、浮かんできたこと。

これ、いずれ長い記事に書きなおしたいところ。
「アトレウス家」は、これから半年間、育っていくプロジェクトらしいし、なおさら先が楽しみです。
Bon ete a tous!
今月から、学生さんたちの有志で定期的に集まっての読書会企画がスタートする。
4日にスタートするので、目下、会の名前を考えているところだ。
会の主旨は、戯曲にカテゴライズされるテクストを、みんなで、読むこと。
今のところ戯曲にしているけれど、いずれ別のものも読むかもしれない。

この勉強会のきっかけとなる授業は、去年度秋にあった。
2週間かけて、1本の戯曲を読む。
各自で読みながら気付いたことを持ち寄り、1回目は発表を、2回目はディスカッションをする。
こんな授業はもちろんはじめての担当で、本当に緊張しながら、しかし今にして思えばその緊張が自分にとっていい刺激になった、そんな密度の濃い時間だった。

4か月の授業が終わった後、ディスカッションに比較的積極的に参加してくれていた数人から聞かれた。「なんで読むんですか」
もちろん投げやりにではなく、わたしの意見を聞きたい、という風だった。
普段から念頭に置いていることは頭のなかにあるはずが、なんだかうまく答えられなかったと記憶している。

そして、今改めて思うこと。
みんなで時間をかけて読むのは、「深読み」するためでも「こじつけ」るためでもない。
「発見」するためなんだろうなと。
どんなに注意して読んでいても、きっと、わたしが興味を持たない箇所があるし、気にもとめない箇所もある。たぶんそういう箇所は、わたしは、永遠に、なくせない。
そして、そういう箇所が、他の人によって興味を持たれる。その人は、わたしにそれを教えてくれる。
もしかすると、わたしが他の人にそうやって教えられることも、時にはあるかもしれない。

「深読み」でも「こじつけ」でもなく、明らかにそこにあるもの。
明らかにそこにあるのに、どうしても自分では見つけられないもの。
それを、教え合うために、みんなで読むんだ。

教えてもらうことで、はっとして、自分のなかの心のもやもやが、晴れる。
あるいは、もやもやの理由が、わかる。
ことがある。

そして、今回のアクションの対象物が「戯曲」であることと、アクションの内実が「読む行為」であることは、それが、いまのわたしたちにとって一番なじみのいいアクションのありかただから。
みんなにとっての得手不得手を斟酌したら、とりあえず「戯曲」を「読む」というのが一番しっくりくるから。

どんな雰囲気になるかまだわからないけれど。
でも、みんなが嬉しそうなのが、やっぱり嬉しい。

よろしく、お願いします。
# by apresthese40 | 2010-08-01 09:18 | 仕事がらみ
わけあって、とあるラジオドラマのテープおこし(というかCDおこしというべきか)をしている。
これがなんだか、すごく楽しい。

文字を介さず耳だけでしかキャッチできないままだった(しかしそれでも十分に楽しんでいたわけだけど)ドラマが、文字へと変換されることで、単語や表現のひとつひとつのつぶてが、主張を始める感じだ。

たとえて言えば、綿菓子として楽しんでいたものが、練り切りの和菓子に突然変わる、そんな感じ。
綿菓子の醍醐味は、普通に呼吸しているだけのときには実感することのない、空気の存在感を楽しめることだ。
綿菓子を食べているとき、自分の周囲の空気は甘く、やわらかくなる。
そして、甘くなったそれは、空気である以上は、ほんの一瞬で消えてなくなる。
その刹那のやさしさが、綿菓子の価値だ。

練り切りの和菓子は、綿菓子と違って、重さがある。
一つの和菓子に、小豆がたっくさん詰め込まれている。
小豆はもはやその形状をとどめることなく、練り切りのゆるいカーブのなかに溶け込んでいる。
そして、その甘さ。ほんの一口、二口が、直接脳みそに届いてこちらのやる気を引き出してくれる。
練り切りは、それを食べる者に、パワーをくれるのだ。
そして、食べ過ぎると、胃にもたれる。
この劇薬的なエネルギーが、練り切りの価値だ。

そして、楽しいドラマのテープおこしにおける文字がよりいとおしく面白く感じられるのは、練り切りが、かつては重さもエネルギーもない、はかない綿菓子だったと、わたしが知っている、からだ。

綿菓子と練り切りという、互いにけっして交換可能でない価値。
その連結点に身をおく贅沢。

音でだけしか存在しないものを文字にすることで、音が持っていた価値も情報量も、その多くは、失われると思う。
でも、その価値もその情報の多さも、わたしは知っている。

となると、それをどうやって人に伝えるのか。
これが問題になるんだろうなと思う。
金曜深夜からなんだか体調がおかしくなり、土曜日は予定を全部ぶっちぎり、昼夜が分からなくなるくらいの断続的な睡眠をとって今日はどうにか復活、吾妻橋ダンスクロッシングに行ってきました。といっても、前半は頭痛が全然収まらず、途中休憩の20分のところで受け付けの女性から頭痛薬2錠をいただき(ありがとうございます!)、後半どうにか持ちこたえて・・・というありさま。日吉のガッコの期末テストを休み明けに持ち越したせいもあって、そろそろ身体が「もう学期末でしょお、いーじゃんいーじゃんやすんでもお」モードに入っているのに違いない。いや、そうはいかんのよ、そうは。学期末は、学期始めの次くらいにしんどいのであるからして、休むとこじゃあ全然ないのよ、わかっとるかね、わたし!?

後半2本目のoff-nibrollの「ギブ・ミー・チョコレート」と、飴屋法水「たち」の「つるとんたん」に、圧倒された。

off-nibroll、飴屋法水、遠藤一郎のパフォーマンスについて内容に触れています
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今日の午前中、先週やった、アレルゲンを調べる検査の結果を聞いてきた。

その結果・・・ぱんぱかぱ~ん!
アレルゲンは、ゼロ! 
卵もハウスダストも家ダニも、わたしのアトピーとは直接的なかかわりはなかったのでした。

まあ、日本を離れるといつも、3週間もすれば湿疹治まるからね、たぶん、そうなんじゃないかなあと思ってはいたのよね~
要するに、掻き癖と角質のもろさとストレスなんだな原因は。

目下、5年ぶりくらいの超・快適状態のありがたみを享受しているところだし、どうにかこれをキープできるように、癖を直して保湿に努めたいところ。

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さて。

日本が大好きで4回来日したあと、アルゼンチンを新天地として母国フランスを離れて生きているソフィーが、「日本」というとてもきれいな本を自費出版した。
装丁をfacebookに載っている写真で見ただけだけど、どうやらとても素敵な本。
写真もテクストも、彼女の作。

彼女の写真は、見ていてほんとに嬉しくて楽しいのだ。
こんな写真サイトも持ってる。
今ちらと見なおしたけど、ブエノスアイレスの写真もけっこう、載ってるなあ。
1年くらい前、かの地で結婚もしたしな~。

ソルボンヌ大学専任講師のポストは、さすがにもう返上したんだろうなあ・・・。

わたしの場合、母国に興味を持ってくれる外国人に対しては、変な優越感や変な劣等感のバイアスなしに接するのがすごく難しい・・・のだけど、ソフィーに関してだけはその限りでない。
優越感も劣等感も感じない。

「あ、そうそう、そうなんだよね、これ、わかる!」っていう写真を撮って、見せてくれる。
日本人である私が、外国の人たちに「これが日本だよ」って見せたくなるような写真を、やはり外国人であるフランス人のソフィーが撮ってくれている・・・。

フランスでは、日本の伝統文化は「シック」、おたく文化は「かわいい」ということで、日本はすごく人気のある国だ。
でも、ソフィーは、そういう既存の言説に載せられて日本に興味を持ったんじゃない。
彼女にとって、日本は、商品ではない、なにか別のもの、であるらしい。

考えてみれば、ソフィーは、日本のことだけに限らず、そもそも利害関係や損得勘定とは無縁、みたいなところがある。
そのかわり、「好きだ」というアンテナと、「知りたい」というアンテナを、たかあく伸ばしてる。
そして、人の話を本当に興味深そうに、聞いてくれる。

彼女がいなかったら、ハカセロンブンなんか書けなかったし、フランスとかかわり続ける勇気も持てなかったかもしれないなあと、今にしてふと思う。

いずれこの本、読んでみたい。
いま、フランスの出版社を探しているみたい。
いろいろな人の目に、この本が触れる日が、来ますように。
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# by apresthese40 | 2010-07-10 23:38 | よしなしごと
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