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都の西北の文学部のなかで小さく産声を上げた「読み会」(WRF)というワーキンググループが、今日、言い出しっぺのワタクシを抜きにしてめでたく第二回目会合をもった、らしい。

第一回目と、その前に一回行った初顔合わせ(と言ってもみんな同じコースに属していて学年もほとんど変わらないから、知らない間がらじゃないんだけど)には、わたしももちろん参加したが、第二回目は、夏の休みだからってあまり間があかないほうがいいし、べつに私がいなくたってみんなで自主的にやってくれればいいんじゃないか、みたいな話をして、結果、今日「センセイ」不在での開催の運び、となった。

そして、さっき、その会合をレコーダに落としたデータを送ってもらい、断片的に聞いて見たのだが…。

おもしろい。
うん。

わたしがいないほうが、断然、面白い、議論が!
っていうかわたしがいるときの議論なんて、聞く気にならないかもだから、そもそも、比べられないんだが(自分の声って、ほんっと、聞きたくないもんね)

聞きながら、思わず頬が緩んできた。

音声データを送ってきてくれたK君とスカイプでちょっとだけ話したけれど、「先生いなくても大丈夫で~す」的なことを言っていた。

よしよし、そうこなくっちゃ!

わたしは、150人の講義形式の授業で、「すみません、これ分かんないんで、誰か教えてください」という羽目になること一度や二度ならず(もちろん、それを回避する努力を最大限行ったうえで、である)、ああ、まったくもう、いわゆる「センセイ」としてはとうてい、トホホちゃんである。まったく、そうである。

それでも、どういうわけか、「センセイ」としてどうにかやれている。どうしてかというと、それは、ただひたすら、「お客さんたちがエライ」からなのだ。
必死でやっているわたしの様子を、どうしてか「おもしろがって」くれる懐の深さがある。
ありがたいのだ、これが。

「読み会」は、その「お客さんたち」の中から有志が集まってできている。
これからが、だんだん、ますます、楽しみだ。

ところであのお、次回、こっそりと静かにしていますんで、参加してもいいですかね!?
# by apresthese40 | 2010-09-03 02:03 | 仕事がらみ
ところで、再びこのコックの話なのだが。
彼がナマケモノになるのは、英語でのコミュニケーション力の低さにも、理由がある。
かれは、いわゆる「正しい英語」を理解しない。
彼が英語で理解できるのは、「今ここにある」「モノ」と「人」に関することだけなのだ。

だから、「この前も言っただろう、これこれこういうことは、しちゃいけないって。それなのになんでやったんだ!理由を言いなさい!」
なんてどなっても、彼には理解できない。
この叱りの文章のなかには、このコックが視界に収めたり五感で感じたりできるような「モノ」「人」についての情報が一切入っていないからだ。
だから、彼が理解できるのは、「自分の目の前にいる人が、自分に対して、不快感をあらわにし、そして、何だかわからないが、何かを「言え」と自分に命じている」ということだけである。そして、自分が「何を言えと命じられているのか」はまったくわからない。

ついでにいうと、「今ここにある」「モノ」と「人」に関することだけしか理解できない彼にとって、「この前も言っただろう」という表現もまた、理解不能のはずだ。「この前」ってのは、彼のなかにはないし、「言っただろう」に至っては、現在時制ではなく、過去時制なのであって、toldなんて過去時制を、彼がしるはずもない。余計なことをいえば、say とspeakくらいならどうにかなるが、tellなんて動詞、現在形でさえ、彼が知っているかどうかはなはだ危ないものである。

そんなわけで、「魚の焼き方」「わけぎの使い方」「レモン汁の使い方」「冷奴に醤油をかける」「乾麺をゆでる」なんてのも、無理なのだ。さて、この4つに共通することはなんでしょう~!なんかだんだん、どっかのクイズ番組みたいになってきたが・・・。
答えは、そう「タイミング!」この4つは、「タイミングが大事」ということにおいて、共通している。すべて、食べる直前に行うべし!なのであって、2時間前に焼かれた魚も、わけぎを入れた後なんども沸騰させなおしたみそ汁も、2時間前に焼いた冷たい肉にかけるレモン汁も、2時間前に醤油をかけた冷奴も、1時間ゆでつづけば乾麺も、嗚呼、わたしは、できることならば、食べずに生きていたい。いやいや、違うな。自分が食べるのはいいのだ。わたしは、2時間前に焼かれた魚も、わけぎを入れた後なんども沸騰させなおしたみそ汁も、2時間前に焼いた冷たい肉にかけるレモン汁も、2時間前に醤油をかけた冷奴も、1時間ゆでつづけば乾麺も、結構平気で食べている。でも、こんなものを人に食べさせるなんてことは、とてもとてもできない。でも、このボーズは、その「タイミングの大切さ」を理解しない。

なんせ、「日本の食べ物は、生活のために習ったので、自分では食べないし、味見もしない」と、無邪気かつにこやかに言い放つからなこのヤローは・・・!!!

ついでにいうと、仮定法も、そうとう、厳しい。If だの、even ifだの、in caseとか、「もしも・・・の場合」「万一・・・のときは」あ~もう絶対、ダメである。の場合なんて表現は、たぶん、ほとんど理解していない。
Becauseも無理だ。「なぜなら・・・だ」なんて、論理的思考の最たるものは、「実践」と「実物」がすべてである彼の英語辞書には、存在しないのだ。嗚呼。

わたしはてっきり、タミール語には過去形や概念を説明する表現などがほとんどなく、そのせいでコックの英語も???なのかと思い、ほかのタミール語話者に聞いてみたところ、そんなことはないと一蹴(一喝?)された。失礼しました、すみません。

このボーズにおける英語でのコミュニケーションの限界に、ひっじょうによく似た「限界」を持っているのが、たぶん、演劇だ。

演劇という言葉ではくくれないとしたら、「一過性のパフォーマンス」という言い方でもいいし、「記憶装置を持たない主体」といってもいいかもしれない。
どっちも変に観念的な表現で、なんかちょとアレなんだが。

概念での勝負ができず、勝負しようとすればするだけ不毛に陥る(かもしれない)芸術。
そこにある身体にたいして、言葉が決して優位にたつことのない芸術(仮に優位に立ったとしても、それはある種の暴力が介在してこその優位だ。ルイ14世は、モリエールの言葉を用いて、暴力を前提とした権力を誇示した)。
そこに居あわせた人だけにしか、伝えわらない(居合わせた人にさえ、伝わるかどうかわからない)芸術。

現在形と現前性以外の部分に、演劇がどのようにしみ出せるのか、あるいはしみ出すべきなのか、しみ出せないことにむしろ価値があるのか・・・こういった思索を、このボーズと対峙しながら、もやもやと続けてみるのが、今回の滞在のテーマかな。

かっこよさげに、まとめてみました。

が。

45歳のタミル人のボクは目下、わたしの目の前で、せっせとまじめに言うこと聞いてやっております。いまんとこはね。明日はどうなるやらしらん。しらん。しらん。しらんぞ。
まったくもう・・・(ためいき)
# by APRESTHESE40 | 2010-08-30 20:56 | よしなしごと
一昨日からインドに滞在中。9月9日までこちらです。
今回5回目で、そろそろ、あと何回こちらに来ることができるか分からない、という時期に入ってきています(なんつってあと何度も来ちゃったりして;)

で。
今朝は、時差ぼけで頭がもうろうとしていたせいもあり、心のたががすっかり外れ、わたしがいないときは仕事をさぼりまくっているというコックさんに、大目玉を食らわせてみた。なんせ、

1)食材がほんの5種類くらいしかないものを夕飯に作ったりする(白米、油が抜けきるまで焼かれ冷蔵庫に入れられた冷え冷えの「焼き魚」、トマトときゅうりをスライスしたもの、即席みそ汁の素で作ったみそ汁、というのとか)

2)使っちゃだめと言ってある食材を、涙がでるような調理方法で使う(生姜焼き用の豚肉を、切り刻んで謎の炒め物にする、乾麺と骨付きチキンを鍋に放り込んでぐちゃぐちゃにし「煮物」と称する)

3)おなじ食材・同じ料理を続けて出す(みそ汁にジャガイモがたっぷりの日に、ポテトフライとポテトサラダを作ったり、オクラの煮つけを作った日のみそしるにオクラが入っていたり、その翌日またオクラの煮つけを作ったりとか)

生姜焼き用の豚は、高いのだ!シンガポールから空輸しなきゃ食べられない貴重品なのだ!そして、焼き魚は、さんまレベルまで油がのっている魚ならいざ知らず、食べる直前に焼いたんでなきゃ固くてとても食えたもんじゃないのだ!そして、乾麺を煮込まないでくれえ!しかもなぜ、骨付きチキンと一緒に煮込むのだあ!イモばっかり食わせて、それは黄色人種がでんぷん質を好むことへの案なる批判なのかあ! 
などなど、叫びたくなるのだ。

ということらしい。

たしかに、なかなかのナマケモノだ。「ダシ」やら「みりん」やらの使い方には心得があって、それが彼の「売り」なのだが、こうもナマケがひどいとなあ・・・。これで、コックとしてお金をもらっているというのだから、実にどうにもこれが。

ただ、これまで4回インドで彼の作ったものを食べてきたけど、そんなひどいものが出てくるのは3日に1度くらいなものだった。でも今回ようやくはっきりしたのが、どうやら、このボーズは(といっても45歳くらい)、わたしがいるときといないときとでは、ナマケ度が段違いだったということ。インドに来るたびおおむね家にいて仕事をしていたから、わたしは彼の仕事を見る時間を長く取れていたし、いろいろとチェックもしていたから、怠けることができなかったらしい。

しかし、ない時間をすり減らしてまでコックに日本の食べ物の作り方を教えるのは、はっきしいって、私のいない11カ月間、オット氏にそれなりにまともなものを食わせてほしいと思ったからであって、わたしに対するおべんちゃらのためでは、ない。

わたしの前だけでいい顔をしていた、ということが、なんだかもう、腹がたってどうしもようもない!!!
本人に問いただしたところ、どうも、本当にそうだったらしい。
愕然。
これまでにこっそりやったチップ、返せドロボー!

しかし、それでもなお、「ダシ」が何なのかを知っているコックも、家で盗みを働かないコックも、ここで、ほかにあてをさがすのは難しい。
よって、15分ほどどなり散らした後、今回もまた、いや、今回はもう、徹底的に、べったりとレクチャーをすることにした。

第一、このままの、「奥様不在時のナマケ」が続けば、彼に次の仕事はないのだ。
通いのコックを紹介してほしいときに、「性格は温厚です。ダシの取り方は知っています。家でものは盗みません。ただし、料理はとにかくさぼります」と言われたら「そうですか、じゃあ、是非」とは答えにくいに決まっている。

どなりあげたせいか、昼休み後、ボーズはいつもより30分以上早く戻ってきた。
よし。
今回は、首根っことっつかまえて、仕込んでやるう!
覚悟してろよこの!

今日の夕食として、わたしが教えようとしているメニュー。
・豆腐ステーキ 3色のピーマン&オニオンの煮つけをソース代わりに 
・白菜、鶏むね肉、マッシュルーム、インゲン、ネギのクリーム煮 ガーリックとごま油で香り付け
・オクラ、ネギ、大根、わかめの味噌汁
・ご飯

できたら、写真upよてい。
# by APRESTHESE40 | 2010-08-30 19:56 | よしなしごと
ただいま地球上を絶賛移動中。現在東京の自宅で1泊トランジット(笑)中。これから家を出て再びリムジンにのります。

15分だけ時間ができたので、今どうしても書いておきたいことをひとつ。

2010年8月26日、フランス、早朝5時。

縁あって友人になった7人のナイジェリア人たちとともに、TGVに乗るため、チャーターされた路線バスに乗り込む。

背が低く黄色い肌のわたしの青い荷物は、彼らのすごい荷物の量にくらべると、うんと小さく感じられる。

民族衣装と、ヨーロッパ式の衣服の両方を持っている彼ら。
彼らがよろよろの服を着ていたことはただの一度もなかった。
民族衣装も、はりのある生地に、いつもきちんとアイロンがあてられていた。

ほどんど眠らずに荷造りをしたことで、みんな疲れているだろうけど、わたしには、その疲れは伝わってこない。

路線バスの車内は、8人分の身体と荷物とでいっぱいに。

そして、バスは静かに、真っ暗な朝の闇のなか動き始める。

長老格(?)のアルフレッドが、低い声で静かにうなり始めると、みなが同じ調子でうなり始めた。
お調子者のブレーズも、いつもは文句ばかり言っているキャロルも、声を合わせている。

なんの歌なのか。
一人ひとりの目をみると、ものすごくやさしそうだった。

ナイジェリア人の奏でる2分ほどの英語の歌を聞き終えた後、アルフレッドに「今の歌なに?」と聞くと、「神への賛美の歌だよ」と教えてくれた。

そういえば、その重厚でやさしい歌を聞きながら、わたしは、闇のなかにそれでもふわりとでもしっかりとうかびあがる、黒い7人の影にふんわりと包まれているような気分になった。

彼らはほとんどお互いに、自分の母語では意思疎通を図る機会はない。
母語では、近代的な意味でのコミュニケーションは不可能だ。
だから一堂に会している彼らはみな、英語かフランス語で話す。

そういえば、人類は、アフリカで生まれたんだった。

いずれ、ナイジェリアに行ってみたいと強く思った、強烈で優しい、ある朝の出来事だった。

そうして、私信ですが、
mmaedaさん、ちょっと遅れたけど、誕生日おめでとう! mmaedaさんの活躍と、ものの考え方が、ほんとうに今の私には刺激的です。
これからもどうぞよろしく。
# by apresthese40 | 2010-08-28 05:29 | よしなしごと
昨晩フランスに到着。純粋に自分の勉強や調べ物のためだけに来たのは、もうどのくらいぶりだろう? ハクロン書いてる時は、家、リムジン、飛行機、ホテル、図書館、ホテル、図書館、ホテル、図書館、飛行機、リムジン、家っていう、なんとも無味乾燥な時間ばかりをすごしていて、ほとんどマシーンみたいだった。
ただ、マシーンであるときには、いろいろなアポを積極的に取って、人の家に行ったり話を聞いたりなんだりということをしていたので、それなりにフランス語もしゃべっていた。でも、マシーンでなくなって、フランスから2、3年ほど離れていたわたし。で、昨晩おそくパリに到着、疲労困憊&ろれつの回らない状態で、とりあえず1本だけ友人に電話をしたら・・・。ううう、出てこない、フランス語!疲れているかどうかって問題じゃない、そもそも、口を衝いて出てこない。ここを読んでいる教え子さんたち、ぎょっとさせてすみません。そういうもんなんですよお。言葉は毎日訓練していないと、忘れるし錆びる。渡航前の準備で気ぜわしかったせいもあって、昨晩は本当に疲れていたから、これでさらに気持ちの疲れが・・・。数日前から治らない足のむくみやら何やらで、もともと気分的にはベストではなかったから、これは、泣きっ面に蜂。

でも、1時間半おきくらいになんとなく目を覚ましながらの睡眠を6時間続けて、さっき起きがけに見た夢は、すごくあったかい夢だった。
ここ2,3年、「あ、もうだめかな、しんどいかな」という時に夢に出てきてくれる、どこかで会ったことがあるはずの誰かと、夢のなかでけっこう長く話ができたのだ。
子供のころは、ハッピーな夢は、「なんだあ、夢かあ」と思ったものだけど、すこし大人になった今は、うれしい夢は、素直にたのしく、ありがたい。

夢の中で、わたしは不動産屋をまわりつつ、家を探している。2件目の家は、すごく広くて、それがお値打ち価格で売りに出ているのだと聞く。気づくと、わたしの従姉妹たちと友人たちが、そこに遊びに来ている。わたしは、ここは私の家じゃないんだから、上がっちゃだめ、と制するのだけど、みんなどやどやと上がってきて、一緒になって家を見ている。(このあたりのことは、この前のアトレウス家の記憶の残像なのか・・・?いや、でも、妙に明るくて白い家だった)そこでみんなで列になって、ハトの真似をしたり、ハエの真似をしたりしている。特にハエの真似のところでは、みんながほふく前進している様子に、その「誰か」がみんなをほめている。ハエの真似の失敗例として、なぜかそこにあるモニタには、まるでバレリーナのように身体能力の高い人たちが、華麗に踊っている様子が映っている。なんかまるで、みんなでコンテンポラリダンスの稽古をしているみたいなあんばいだ。
次の場面でわたしは、「誰か」と教える仕事について話をしている。ヒヨシの授業が面白いとしきりに主張している(ここでなぜ、都の西北の授業が面白いと主張しないのか、私?)。血気盛んに主張し続けるわたしに、その人はあまり表情もかえずに、耳を傾ける。
そこにみんなが集まっている。記念撮影を撮ることになる。そこでその人は、わたしの横に座り、肩に腕を回す。あ、どうも、先生。とわたしは話しかける。その人の服が私の服とすれるその感覚が、今はもうすでにこの世にいない、20年前に憧れた、ある先生の面影を呼び覚ます。「あのお、先生なんですか?」その人は言う、「さあ、どうなんだろうねえ」

これは、都の西北での授業で、シュルレアリスムの鈴木先生の論文をみんなで読んでつくづく思ったことだけど、夢というのは、「わたし」にとっては本当にリアルだ。見ている自分にとって、そのリアリティの感覚にはなんのゆるぎもない。けれど、こうして言語化すると、どうしても幻想的にしか書き起こせない。自分にとっては絶対にリアルなのに、それを人と共有できないのは、なんというか、狂おしいことだ。

そして、目覚めたわたしには、元気がもどっている。足のむくみも、まだ解消されきってはいないけど、どうにかなりそうな感じだ。昨日の疲れは、8割、取れたと思う。

これから15日間、毎日の密度を濃く、大事にやっていこう。
# by apresthese40 | 2010-08-12 14:24 | よしなしごと
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