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『摂州合邦辻』 

『摂州合邦辻』12月25日、日生劇場で楽日。
面白く見ることができた。のべにして40分ほどうとうとしていたと思うが、是非、文楽でも見てみたいと思った。
義理の息子への恋慕(これが本心なのかどうか分からないところがこの狂言の魅力を倍増させている)という主題は、ラシーヌの『フェードル』を思わせる。
けれども、主題の提示の仕方が、『フェードル』においてよりもずっと込み入っているので、よほどずしんと重たかった。
感想はいろいろあったんだが、三つほどあげておく。
まず、「耐える女」を称揚するメカニズムの精巧さが恐ろしいと感じたこと。
そして、惚れた男に対する思いを遂げる女としての玉手御前は、およそフェードルとは比較にならないすさまじい女だということ。その「すさまじさ」だけを比較するならば、むしろ王女メディアに近いような。
そして、特段のファンタジー色のない場面設定と舞台装置でありながら、観劇後には、どうしてもファンタジーを見たような印象が強くなるのが面白くて不思議だとおもった。このあたりは、ストリンドベリを思わせる。

歌舞伎の批評や感想は、役者の演技について云々することが「正道」なのではないかと思っているのだが、わたしは、それができるほどには歌舞伎役者を知らない。それができるようになる日が来るかどうかも、今はまだ分からない。

以上が、かいつまんでの感想。

ところで。
じつは今回が、わたしは「一人で見る歌舞伎」デビュー戦だった。
そう。わたしは、歌舞伎に一人で行ったことが、これまでにただの一度もなかったのだ。わたしは、これまでに、日本演劇には、決定的に「出会った」ことがなかった。
「歌舞伎ってよくわかんなあい」と口にする10代の若者の思いは、そのまま、わたしの思いと同じだった。
でも、海外に出ると、日本から来た人間だから歌舞伎のことはよく知っているだろうとばかりに説明を求められる。
なけなしの、教科書的な知識をなんとなく披露するが最後、矢継ぎ早に発せられるより各論的な疑問の一切に回答を持ち合わせるはずもなく、シレシレとそれらしい返事をする。
そういうことをやってしまったあとは、その日はもう使い物にならないほどに憔悴するとわかっていながら、そんな場面をこの20年間に何度経験してきたことか。
それでも、「日本人として恥ずかしいから、きちんと勉強しよう」という発想が、わたしにとって真の動機づけになったことは、これまでに一度もなかった。
わたしには、「出会っていない」ものに、出会ったそぶりで関わるということが、どうしてもできない。…もっともこれはべつに、歌舞伎だけでなく、人間関係にせよなんにせよ同じことなんだが。

でも…。
ここ10年来、たくさんのひとたちの、さまざまな努力の成果として、日本と西洋圏の舞台芸術界における人的交流の流れが出来上がってきたんだなあと感じている。フランスの舞台芸術はその筆頭だと思う。かの地で成功を収めた舞台作品が、日本で上演されることも、本当に増えてきた。
多かれ少なかれフランスに関わりながら、観劇のために海外を飛び回るためのモチベーションを持てないままに生きているわたしには、それらの舞台はみな「見ておいたほうがよい舞台」ということになる。「見たいから見る」のではなく、「見ていないとみっともないかもしれないから」から見るのである。
そしてこのスタンスは実は、自分が海外にいるときに日本の伝統演劇に対して持たされている距離感と、まったく同じなのだ。ということに、この秋、決定的に気付いてしまったのだ。
わたしは、日本の伝統演劇にも、フランスの現代演劇にも、要するに、「一般的に持つほうがよいとされているところの好奇心」を、持ってやしなかったのだった。

以前からうすうす分かっていたことだが、このことを自覚してしまったことは、結構、ショックだった。
そして、このショックの反動で起こったこと。それは、「わたしは、日本の演劇に出会いに行かなくっちゃいけない」というムラムラとした思いだった。
これが、今回、「勇気を出して」ひとりで歌舞伎を観に行った理由だ。
これからもこの「ムラムラ」が継続するかどうかはまだ分からない。
でも、一昨日見た日生劇場の舞台は、わたしの「ムラムラ」に、さらに火をつけた、ようではある。
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