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『音の城 音の海』 ミニライブを見て

『音の城 音の海』 ミニライブを見て_e0129547_0482165.gif  今日は、UPLINKで音楽ドキュメンタリー映画『音の城 音の海』をもう一度、見てきた。上映後に、大友良英さんと、映画の出演者の一人の永井くんのミニライブがあるというので。すでに映画は見たけれど、ライブを見る前に、もう一度見ておきたかった。
  





映画は、二部構成で、旧館ひとつを借り切ってその中のあちこちで様々な音を即興でどんどん響かせる「音の城」と、コンサート形式で、舞台があって、演奏もある程度稽古したものや枠組みが事前に決められたが行われる「音の海」の二種類だ。改めて映画を見ていて、知的障害のある人たち、音楽療養士、音楽家、この3者が、最初はどんなふうに戸惑っていたのかを、初回よりもじっくり観察できた。最終的に、セッションに近い形が3者の間で取られるようになるまでに、どんな試行錯誤が行われたのかが、段階的に見えてきて、おもしろかった。しかも、改良され生成されたひとつの完成物のようなものも、すぐにほころんで次の形を求めて(なのか?)崩れたり変わったりする。あるいは、最初の段階でまったくの無秩序に見えたものが、無秩序ではあったかもしれなくても無根拠ではなかった可能性があとでみえてくる。すべてが、どうしてもとりとめがなく常に緊張感を強いられる体験でありながらも、「そこに、他の人がいる、ということ少しずつ発見していく」というベクトルの方向性だけは、かすかな希望として肯定されている、そんな映画だった。「音を出す」という行為は、「そこに、他の人がいる」ということを確認したり証明したり実験したりするための手段として用いられているのだな、という印象を持った。
  そして、大友さんと永井くんのライブ。わたしは音楽オンチなので、ライブの音楽的な価値は、よくわからない。いや、そもそも、大友さんのライブこれまでに5、6回は見ているけれど、その音楽的な価値をどうこう言えるだけの参照項は、わたしには何にもない。でも、今日のライブは見ていて嬉しかったし楽しかった。大友さんと永井君は本当に久しぶりで会って、しかも人前でやるセッションとしては、今回がはじめて二人だけで演奏する機会だったということだけれど、二人が二人とも、相手の音と動きを受け止めようとしているのが分かった。全部で20分くらいのミニライブだったけれど、一瞬の幸せな幻をみた気分になった。
  帰り道、あのミニライブも、映画も、なんでこう、こちらをこうハッピーにしてくれたのかなあと考えてみて、ピンときたことがある。
  前々回あたりの日記にも書いたけれど、初回見たとき、この『音の城 音の海』のタイトルバックに、カラフルな絵が用いられていて、それを見てあっけに取られた。ちょっと涙が出たくらいに。あの絵は、この「音遊びの会」のなかで生まれた絵なのだという。絵の作者は濱翼君といって、歳が一番下(だったと思うたしか)で、他の人たちが少しずつでも確実に音楽をやっていこうとする(ように見える)中で、最後まで「音を出す」ことよりも「絵を描く」ことをはっきりと好み、やり続けた子だという。企画通りに物事を進めるべしという立場から見れば、彼は要するに「問題児」ということになるのだろう。けれど、彼は、仲間たちが出す音のシャワーのなかでクレヨンを握り続けることで、逃げることなく、あわてることなく、「聴き手」という名の「音楽の当事者」になっていたのに違いない。あの絵が、彼が浴び続けた音の広がり、連なり、響かいのあれこれさまざまを、どこか包括するような世界観を可視化したものだったからこそ、あの絵が私の心にどんと響いたのかもしれない、と思ったら、なんだかストンと腑に落ちた。彼は、絵ばっかり描いていた、のではなくて、音の洪水を聴いていて、それを絵という表現手段によって「翻訳」して提示したのだ。
  そして、知的障害者と音楽家が、互いの発する「音」に対して答えを探しながら即興音楽の可能性をさぐるこの試みじたいが、互いに互いを「翻訳」しあおうとする試みそのものなのだなと思う。もちろん、相手がどんなつもりでその「音」を発したのかなんて、絶対にわかりっこない。それは、「音」を発するその人に障害があろうとなかろうと同じ事だ。それに、「翻訳は裏切り行為である」とはよく言われる。もとの「音」とイコールのものを作り出すことは、「翻訳」には絶対にできない。しかも、相手の発した「音」とは異質なものをあえて出す、ということをする人もいる。ただ、相手の「音」を受けて自分が新たに「音を」発するにためには、その「音」をどう受け止め、どう理解するのかを決めなくてはいけない。そういう「翻訳行為」を経てはじめて自分の出す「音」が生まれる。そうやって、どんな「音」をだすのかを悩むことだけはできるのだし、それをすることによって、「そこに、その人がいる」という風に、相手の存在をはっきりと認識できるのだろうと思う。今日の大友さんと永井君は、お互いにお互いの出す音を聴こう、聴こうとしていた。けして超えることのできない、自己と他者とを分け隔てる壁を恐れることなしに、自分に聞こえた相手の音を、どうやって自分の表現によって音声化しなおそうか、瞬時の迷いと決断と小刻みに続けているのが感じられた。たぶん、こういう関係性のことを、「信頼関係」というのだろうと、見ていて思った。

  さっき、大友さんの6月4日付の日記を見に行ったら、「音遊びの会の活動もENSEMBLESやダブルオーケストラも、私の中ではきっちりとつながっているのであります」の一言。ああ~~~~明日、6日のライブ楽しみだなあ~~~ 飴屋さん、Sachiko.Mさん、芳垣さん、どんな「指揮」をするんだろう。その「指揮」は、100人のひとたちによって、100通りに、色とりどりに、「翻訳」されるのかなあ。その100通りの翻訳は、互いにどこかで、出会うのかなあ。
  うううう~楽しみですっ!

6日のライブいらっしゃる方、会場でもし会えたらラッキー!ってことで!See you later maybe!
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