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「猿と石」

ここ数日で、なんかいろいろ動きが。
書いておきたいことがたまっているので、多分、日記3連発か4連発くらいになると思います。やかましくてごめんなさい。

5月25日、VACANTで「猿と石」。
超満員のVACANTで見たライブパフォーマンスは、不思議で、あったかくって、おもしろかった。会場一階で、タイの(だよなあきっと)の料理がたくさん売られていた。パフォーマンスの会場となる二階にあがると、ばさばさと積まれた服の土手に守られるように、マイクが一台、人が座れそうなくらいの横長の箱がひとつ。中央には、ドラムセットと、机と椅子。奥にはいろいろと機材が置かれた場所があって、その向こうに、ベンチみたいなものが斜めにぐわああと縦にせりあがったかのようなインスタレーションがひとつ。その、複数のナニモノかのセットの周囲に、観客の座る場所、として、小さな座布団が点在。
入場者数がすごくて、座布団は足りなくなった。パフォーマンスが始まるとき、こんなにたくさん人が来ると思わなくてビビッタ、的なことを飴屋さんが言ったとたん、会場、爆笑。

印象的だったことをかいつまんでふたつ。まずはタムくんのパフォーマンスの方法。プロジェクターで映しだされたタムくんの机の上に広げられた大きなスケッチブック。人生ゲームのようなカード。サイコロ。歳はサイコロの目で、その歳の境遇はカードに描かれた「うれしい」「アンラッキー」「恋」「妊娠」(だったかな?)「死」などの境遇によって決定され、タムくんは、その二つの偶然によって規定された情報に即した絵を、即興で描く。こうして人間とも動物とも判じ難いキャラクターが、クレーアニメか紙芝居の登場人物のような生命力を放ちながら、数枚の絵によって、私たちの前で生きて、そして、死ぬ。53歳で妊娠し、60近くで(だったかな?)死んだ女性の話。54歳(だっけ?)で死んだ男の人の話。けっこう、こたえた。こたえた、という言い方が正しい。マジックで描かれた絵でしかないものから、なにかズシンとくるような印象と記憶を植え付けられるとは。そのキャラクターの人生の時間軸が、パフォーマンスの時間軸と重なっているがゆえに、彼の(あるいは彼女の)未来を知っている人は誰もいない。だからみんな、次の目、次のカードに注意をこらす。彼、彼女の人生を「目撃」した観客の記憶の中に、有機生命体ではなかったにもかかわらず、彼、彼女の人生は、確かに残ってしまう。
ふたつめ。途中で、タムさんの絵を映し出すプロジェクターが機能しなくなるアクシデント。飴屋さんが、おそらくつなぎの意味もあってだと思うけれども、すでに残っていない、3歳のときの自分の記憶のこと、今3歳でいるお嬢さんもまた、3歳の時の記憶はおそらく失ってしまうだろうということ、そして、記憶していないからといって、3歳の人生を生きているその時代が明らかに存在している、それじたいは本当である、という意味のことを話していた。
わかり合う、ということは、人と人の頭と心を挿げ替えることができない以上は、妄想でしかない。けど、自分でないだれかほかの人あるいはモノでもいいかもしれないけど、それが、「そこに、いるのだ」と実感することならば、できるかもしれない。そして、その実感を持てるかどうかで、自分が一人ぼっちでなく生きられるんじゃないかなあと、そんなことを思った。60歳で死んだ女性も、54歳で死んだ男性も、今のわたしには、「そこに、いた」存在に感じられる。3歳の記憶を、本人が忘れても、わたしのような他者が、その3歳の人の存在を、「そこに、ある」と認識する。そうすることで、ひとりでなくなるのは、60歳の人でも、54歳のひとでも、3歳のひとでもなく、わたしなのだなあと、思ったりした。
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