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山川冬樹「黒髪譚歌」

原宿駅からラフォーレ経由でふらふらとVACANTへ。
山川冬樹さんの一人のパフォーマンスはこれまでに一度も見たことがなかったので、すごく楽しみにしていた。
それにしても、あのVACANTって場所は、ほんとにイイ。
あそこに行くと、いっつもわたし緊張するんだなあ。
大体いつも1人で行ってるせいかもなあ。
だいたい、あそこでやるパフォーマンスやらイベントやらは、われながら思いいれが強すぎて、誰かと一緒に行く勇気がもてない。

で。
んっとにすごいパフォーマンスでした。
少々悔しい気持ちもあるんだけど、最後の20分はもう号泣状態になった。
多分だけど、最初の1時間で、心の鎧をひとつずつひとつずつ、外されているのだと思う。
5万画素のデジカメだった自分が、いきなり1000万画素になったときの衝撃というか。
普通に通路を歩いていただけの自分が、じつは高度10000メートルの上空にいるのだと実感したときの衝撃と恐怖というか。
半径3メートルの音しか聞き分けられなかった自分が、今この瞬間アフリカにいる象の雄たけびを聞き分けちゃったときの衝撃とというか。
この三つ目の衝撃だけは、実体験じゃないけども・・・
そういうレベルの衝撃が、最後のほうにどんどん、どんどん、やってきて、自分でも面白いくらいに目から流水、流水。

人は、「ほんとうはそこにずっと昔からあったもの」の存在を思い知らされるとき、心をズギュン!とやられる。

もっとも、もうひとりのわたしの、「な~んか泣かせる系のパフォーマンスにやられちゃってるんじゃないのお、わたしったらこの、このおセンチ大好き人間なんだからあ!」
という声が、聞こえないわけじゃあ、ない。
つまり、なんだろう、要するに、感動の仕方が「ワン・パターン」だと。

でも。
「ワン・パターン」なのは、わたしの感動の仕方であって、パフォーマンスのほうに、「ワン・パターン」という言葉は、その「ワン・バターン」という言葉の悪い意味において、当てはまらないのだとおもう。
人間ってたぶん、ほんとうはこれがやりたいのに、と思っていても、社会的制約のせいで、それを一生実現せずに終わる、なんてことがすごく多い。
これはやっちゃいけません、あれは悪いことです、人がみたらなんて言うでしょう恥ずかしいよそんなことして、それがやれれば良いのだろうけれど現実問題として無理でしょう・・・
そうやって自己規制をかけているんだ。
たぶん、そういう種類の「やりたいこと」が、破壊的な行動とか言動なんじゃないか、それを実行しちゃうことで、この社会においてもらえなくなりはしないかと、いつもいつも、怖がっている。
その怖がり方が、「ワン・パターン」なのだ。

そういう制約は、時代がどんなに変わろうと、無くならないし、力を失うことも無い。
人が社会的な生き物であることと、社会性ゆえの制約とやらいう代物は、ぜったい、消えることは無い。

そういう制約にがんじがらめになっているわたしのような人間には、山川さんのパフォーマンスは、凝り固まった肩の筋肉を一瞬でも完全にほぐしてくれる力があった。
っていうか、わたしの場合、今日みたいなパフォーマンスがないと、自力で身体のこわばりを取ることができなくなっているんだと思う。
よしもとばななさんが、飴屋さんの『サイコシス』をみた感想で、飴屋さんのようなひとが居てくれなかったら、生きるのは相当難しかったかも、とさえ思った、という意味のことを書いておられたことを、ちょっと思い出した。



髪の毛・・・。
切らずに伸ばし続けられたその髪は、積み上げられていく自分の歴史の、可視化された姿なのだろう。
その歴史のなか、さまざまな出会いと別れがある。
出会ったり、別れたその人々もまた、いろいろな事情と制約のなかで、生きて、死ぬんだ。

それを、切るということは。
積み上げられた歴史を、自分の外側に、完全に、切り出すこと。

それをかもじのようにして、天上にあるレールに結わえ付ける。
下には、ギターがぽつんと、ひとつ。
切り出された髪が、ギターにやさしく触れるたび、柔らかな音が、わたしたちの耳にふんわりと届く。
山川さんの外側に切り出された髪が、皆に届く音を奏でる。
その「しゃららら~~~ん」という音は、髪がギターにふれるたび、5~6回、聞こえた。
わたしは、最初の4回、音が聞こえるたびにぽろぽろ泣いたけど、5回目、6回目あたりに、ふとしたことを思い起こし、なんだかとてもすがすがしい気持ちになった。

そのふとしたこと、というのは、最近スペシャリストに教えてもらった、フランス語の母音と子音の関係だ。
母音は、声帯を震わせ、人の耳に届くように発せられた音。ヴォイスだ。
子音は、呼気つまり肺から生じる風の音。ノイズだ。

ヴォイスとノイズ、両方があることで、音は、出る。
ヴォイスだけだと、言葉はたぶん、作れない。
ヴォイスは、それ単体でエネルギーを持っているもの(たとえば生きた人間)にしか、出せない。
ノイズは、その発生源が、生きていても死んでいるかよりも、そこに吹いた風にどんな道筋を作るか、という問題だ。
ヴォイスとノイズ、どちらが欠けても、たぶん、人間として、うたやことばを音に乗せて発することはできない。
そして、この二つが切り離されてしまったときに、ものすごい悲しみが、やってくる。

だから。
母音と子音のコンビネーションは、その人が生きている、という証なんだなと思った。

こんどから、ヒヨシの学校で、発音の授業もやらせてもらうことになったのだけど、じつはちょっと、自信がなかった。
でも、今日のパフォーマンスのおかげで、母音と子音、それぞれがどれほどに大切なのかを、自分のなかで常に感じ続けながらいられそうだ。そのことが、すごく、ありがたいと思った。
こんな話をしたって、お客さんはみんなキョトンとするだけだろうから話しはしないけどね。
わたしには、山川さんみたいに、身体と音と空間を使って訴えかける力はない。
けど、そうやって訴えられたことがらのおかげで、冷えた心に火が入る。
冷えた心で何か伝えようとしてもなにも伝わらない。熱せられた心で何か伝えようとしたときにはじめて、そのことが、伝わったり、伝わらなかったりとか、そういう可能性が開けるんだろな。
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