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ホーメイライブの思い出&『サイコシス』観劇メモ1

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『4.48サイコシス』が飴屋法水さん演出山川冬樹さん出演で上演されると聞いたのが、まだ春だったか。
飴屋さんが「音」の方であるというのは、大友良英さんとのコラボレーションをはじめ、いろいろなところで見聞きしてなんとなくしっていたけれど、ホーメイの山川さんが「サイコシス」に出演、と聞いてから、これはぜったい、「音」の展示になる、と思って、この秋まで、時間の許す範囲でいろいろ考えたり見たり聴いたりしてきた。

で、10月に、山川さんのパフォーマンスが見たくて、ホーメイの本場トゥバ共和国から女性のホーメイグループ「トゥヴァクィズィ」のライブへ。山川さんは、ゲスト出演。
なんの予備知識もなしに飛びこんだライブ会場は、レストランみたいなところだった。
しかも、みんなお仲間どうしで楽しそう・・・・一人でのそのそやって来るやつはいないんだなここは・・・
しかも、食べ物と飲み物を一つずつ注文しないといけないらしい・・・

フランス、もう何回行ったか忘れたけど、なれていないカフェやレストランに一人で行くといつも、ウエイターがきっとわたしの注文は取りにきてくれないにちがいない、という不安に駆られて、居心地が悪い。
それとおんなじ状況になっちゃった。

みんなが楽しそうにしているところで、しょんぼりひとりで座ってるのは、辛い。
あ~帰りたい、と思い始めたところで、わたしの目の前の席に、可愛くてピピっとした女性が「ここあいてますかあ?」と座った。
あ~よかった、わたしがいるせいで、向かいの席がひとつ、空いてしまっていたから。
「ええ、どうぞ」

この人も、一人で来たのかなあ・・・・
なあんて思ってたら、わたしの後方から「ごみょごみょみょ~~」と呪文のような声が。
その女性がにっこりと顔を上げ「ええ~~?」と言った。

「ホーメイであいさつしたんだよ」と山川さん。

ああ、そうか、この女性は、なんとなく、関係者っぽい人だったんだな。
わたしがひとりぼっちで寂しそうだったから、気を利かせてここに来てくれたんだな。

ありがたかった。ありがとうございます。
おかげで、その後のライブ、すごく、楽しかった。
「倍音」がどういうものなのか、「トゥヴァクィズィ」のライブと、山川さんのライブの両方で、堪能できた。

ホーメイをナマで聴くのはだから、『4.48サイコシス』が3回目ってことになる。

以下、決定的にネタバレしています。




わたしには、ホーメイの、あの低いダミ声みたいな音と、ピーっとサイン波みたいに聞こえる高い倍音と、どちらの音にどんな意味があって、何を表しているのかとか、ぜんぜん、知らない。

でも、16日に1回、昨日18日に1回と、計2回『4.48サイコシス』を見て思ったのは、初日より、昨日のほうが、倍音が、よく聞こえた、ということ。

これは、わたしの座ってた席の問題なのかな?
それとも、山川さんの声の問題なのかな?
それとも、マイクの音の拾い方方の問題なのかな?
わかんないけれど、昨日のほうが、倍音は、よく聞こえた。
昨日は、「音」を聴くぞって、決めて行ったからかも、しれない。

そして思ったのは。
山川さんは、声を、たくさん、ほんとうに、たくさん、持っている。
いや、声じゃなくて、「音」って言うべきなのかな。
倍音がもともと、その届き方が一様でない「音」なのだとすると、
山川さんは、ある意味、「音」を無限に持っている。

そして、2時間10分の上演時間の間、さまざまな「音」が、聞こえ続けている。
ピアノ、せせらぎ、サイン波、ハエ(あぶ?)、鐘、マリンバみたいな楽器、小さい子の声、心臓の音、鈴虫、人の声、叫び声、キリストの声、バイクの音、雷、トレーニングのシュッシュっという声、天気予報、筋トレの機械の音、バスケットからフェンシングの面が次々に落ちる音、ピンポン玉の落ちる音、パフォーマーの訛りやイントネーションの奇異さ(外国語としての日本語、「さあ~」という語尾、「と」という助詞、「と思う」「と信じている」という語尾、日本語と並置される英語表現、「ため」という語尾) などなど・・・
私が意識しただけでも、これだけあった。
きっと、もっとあった。もっと、もっと、たくさん。

サラ・ケインの残したテクストは、長島確さんによって日本語に置き換えられ、その置き換えられた言葉を、パフォーマーが、発話する。
パフォーマーの声が、ひとりひとり、ぜんぜん、似ていないのは、たぶん、偶然じゃない。
いや、科学的には似ている声質の人がいるのかも分からないけれど、こうした舞台作品として見る限り、一つ一つの音は、それぞれ、ぜんぜん、似ていない。

ひとつひとつの、ぜんぜん似ていない音が、音響と、パフォーマーとで、すでに、何十通りもひびかっている。
ケイン/長島の作り出したことばが、だから、そこですでに、何十通りもの聞こえ方を、する。
その何十通りを、何千通り、何万通り、無限通りへと開いてしまうこわさが、山川さんの身体から出てくる「音」なんだ、たぶん。
それは、彼の身体から出る「音」が、人間ひとりぶんの「声」じゃなくて、「音」としか呼び得ないものでできているからなのだという気がする。
そして、それを痛感させてくれるのが、彼のあの、倍音なのだなと感じる。
しかも、地にとどろくような、もう一つのだみ声。あのだみ声からはるか遠く、別次元から聞こえてくるような、倍音。地獄から、別世界まで、届く、「音」

もちろん、山川冬樹さんという人に、個人としての人格はあるに決まっている。
けど、あの「音」は、その個人的なものから発せられているのでは、ない。
もっと、おびただしい数の、声なき声の、集合体から、発せられているんじゃないのかな。

なんか、そんな、気がした。

あと2回、見ます。

by apresthese40 | 2009-11-19 09:23 | 4.48 psychose
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