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3週間ほど前から、体調管理のために、いびきを直そうとまずは「いびきラボ」なるアプリを取ってきて使っている。
自分の眠っている間の寝息=いびきを継続して録音し、その音量をイメージグラフで示してくれるアプリだ。
『静か」「軽め」「喧噪」「激しい」の四色で色分けされたグラフは、縦軸が音量、横軸が時間で、何時ごろどのくらいの音量で眠っていたかを一目瞭然で理解でき、グラフの一部をクリックすると、その時の音声を再生できるというしろものである。

はじめてこれを使った翌朝は本当に衝撃を受けた。
家族から、私のいびきのすさまじさは聞いていたが、これを自分で聞く衝撃たるや。
ほとんどライオンである。これが本当に人間のたてる音なのだろうか???
これを毎晩夫に聞かせていたのかと大変申し訳ない思いにもなったし、1年ほど前に耳鼻咽喉科の診察で無呼吸症候群の傾向があると言われたことも、こりゃあもっともだと思った。
どうやら、太りすぎの傾向が問題のひとつであるらしいのだが、ダイエットは天使が下りてこないとスタートできないので(ダイエットのやる気と継続性は、自覚的な意志などでは到底もたらされ得ぬのだ)、さしあたっての解決策の一つと言われる抱き枕購入に踏み切った。

抱き枕の効果は・・・まあ、結論から言うと、ない。
まあ、抱き枕を導入してから、いびぎのイメージグラフの波形が変わったのは、確かではある。
最初は静かで、2時間ほどすると二次関数的に跳ね上がり「喧噪」を軽々と通り越して「激しい」の域に達するのだ。
抱き枕導入前は、眠りにはいるとすぐに音量があがっていた。ただし、その音量は、「激しい」の前の「喧噪」の域での推移が多かった。
どうやら、抱き枕を抱えた状態での体勢に飽きて大きく寝返りを打つや否や、まるでずっと泣くのをこらえていた子供のように、堰を切ったように、大音量になってしまうらしい。

こまった・・・やはり天使が下りてくるその日がやってくると信じて、大音量の人生を送るよりほかなさそうである。

しかしだ。
実は、この大音量の効用を、私は今日、一つ見つけた。
録音されたわがいびきを、スマホでかけっぱなしにすると、すごく集中力が増すのである。
このことは、ほんのさっき、気づいた。
今読んでいる論文集、昨日までは確かに「読みにくいなあ」と思っていたのに、先ほど我知らず音をかけっぱなしにして読んでいたところ、気づいたら没頭していたのである。
? これは単に、たまたま面白い論文を読んでいたからに過ぎないのかとも思ったのだが、そうもそうでもないらしい。

言ってみれば、私は、私の寝息を聴きながら研究をしているというわけである。
いわば、私は、眠っている私の横で、仕事をしているわけだ。
そういえば、家族が眠っている横で仕事や勉強をしていると、やたらとはかどる、どんなことでも。
さてこれは本物の効能なのだろうか。これにもまた、1,2週間のモニタリングの時間を必要としそうだ。
そうこうしているうちに、2018年度があけるだろう。

昨日、天命を知る年齢を、迎えました。半世紀生きたことになります。

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# by apresthese40 | 2018-03-25 20:58 | Comments(0)
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私はあの日、早稲田大学戸山キャンパスのプレハブ教室で、次年度に2年生に上がる学生さんたちを迎える準備をあれこれ、当時の上司にあたる先生と一緒に、していました。
一度目の揺れで、ぎょっとなりました。
二度目の揺れで、私はその先生を屋外に連れ出しました。
1時間くらいして、持ち場にもどってみると、書棚の上から、結束してあった紀要の包みが落ちていました。
テレビも落下していました。
その後私は、歩いて自宅にもどりました。徒歩50分の場所に住んでいた偶然に感謝しました。
揺れとは90度の方向に置いてあった自宅の書棚からは、本は一冊も落ちておらず、驚きました。
津波の映像が流れていることに気づいたのが何時だったかは、なぜか覚えていません。
当日だったはずなのですが、思い出せない。

昨日のNHKの朝のニュースでも言っていましたが、みんなあの日のことは覚えている。
たしかに私も、鮮明に覚えているディテールがいくつもあります。

そのあと7年間、本当にいろいろとあって、今に至りますが、不思議と、今年は、震災のあとの1クール目が終了したという実感を持っています。
これは、2クール目に入るという意味でもあります。
きっと、3クール目もあるかもしれません、何年先になるかわかりませんが。

この7年間、一生懸命生きてきたおかげで、理解できたことがひとつ、あります。

「一人で生きない」というのは、戦いだ、ということです。
人は生まれた時は一人で生まれ、一人で死にます。どんな大家族に囲まれてしあわせに生きていても、晩年にどうしようもない孤独感と戦うことになったりします。
事故や天変地異、あるいは戦争等で、家族や友達をみんな失って、一人になってしまうこともあります。
他方、人と一緒に仕事をしたり勉強をしたりするのは、時としてとても難しいです(私はこれがすごく苦手です)。
誰かと協力するよりも自分ひとりで片付けてしまう方が、いろいろな意味で楽だなあと思うこともあります。

私たちは、望まず一人になってしまうことも、一人になりたいと望むことも、両方、あります。

けど。

「一人で生きない」ということのための戦いを、私はしたいんだなあということを、震災のあとのさまざまなことを経て、いま確信的に、理解しています。
「一人で生きる」ということを、自分から進んで選び取らないために、毎日を、戦ってみようと。
ここでいう「一人」とは、いま言ったような、「望まずに一人になってしまうこと」とも、「一人になりたいと望むこと」ともちがう、別のことです。
そこには、自分と自分以外の生き物やものに対する、信頼の問題が横たわっているように、思います。

このことに関連して思うのが、わたしが5年前から東京の某所で仲間たちとともに持っている小さな図書室のことです。
その図書室は、築50年ほどの2階建てアパートの2階にあり、間取りはひと世帯27平米で、おそらく半世紀前の新婚夫婦がここでハイカラな暮らしを始めたことだろうなあと思っているんですけれども、そこの入居者のほとんどが、一人暮らしで、しかもご高齢です。
でも、そのアパートには大家さんがいて、店子さんたちの暮らしを気にしながら暮らしている。
その大家さんも、ご高齢だったりとか、する。
皆さん、お一人で暮らしている事情はそれぞれなのでしょうけれども、彼ら、彼女は、「一人で生きる」ということを自ら進んで選び取っているのだろうか。
それとも、一人でいるからこそ、誰かとともに生きている実感の中で暮らしているのか。
それぞれの店子さんがそれぞれの人生を抱えておられるでしょうけれども、そんなアパートが、わたしの関わる図書室のありかであることは、私にとって大切です。
「一人で生きない」という戦いがどういうことなのかを、改めてリアルに考え続けるための問いを、発し続けてくれる場だからです。
そしてそういう問いを私につきつけてくれるのは、その場そのものだけでなく、そこに直接的、間接的に関わっている仲間たちとのあれこれでも、あります。

わたしは、「一人で生きない」をめぐる戦いを、次の7年間、続けていくことにします。

写真は、今年卒業するゼミ生のお母様からいただいたチューリップ。写真の赤い花が咲く前、この株は別の見事な花をつけていました。
その花が寿命を終えたので茎から切り取ると、翌日にはもう、写真のこの花のつぼみがぐいと姿を現していました。
一人ぼっちにみえた最初の花はまるで、下の方にある次の花と、バトンリレーをしていたみたい。

そうそう、「一人で生きない」をめぐる戦いのキーワードの一つがきっとこの、「バトン」かもしれません。
「バトンリレー」は、手渡されなければならない。博物館や図書館に保管しておいて、解凍して受け取るものは「バトン」とは言わない。
いや、古文書を紐解いて、その時代の人々が残したメッセージをけ取る感慨を知らないわけではありませんし、それはそれで、素敵なことです。
けど、それはやっぱり、「バトンリレー」とは別物。

私は、「バトン」をもって走るランナーでいたいです。たとえ走り方がおかしくても、途中で転んでも。

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仙台に来て5年めにして、引越しをしました。
転職や身分の変更などによらない、自分だけの選択による転居は、人生初です。
「転居しました」のメール連絡をbcc.で一斉に送信したところ(これを読んだ方で、「え、私届いてない!」と憤っている方、個人メールあてお知らせください、ごめんなさい。。。ミスです。。。)、お返事くださった在仙の方々の中の数人から「メールのタイトルを見て、東京に戻ってしまうのかしらとぎょっとしました」と。いえいえ、そんなそんな。引越しは、仙台市の中でのことです! おりますおります。おりますとも。

昨日、鍵を管理会社にお返しするため、住み慣れた旧居へもう一度だけ行ってきました。待ち合わせ時刻の17時の1時間くらい前に到着、がらんとした家のなかに入り、寒い寒いベランダから、大好きな眺望を臨みつつ、近くのスーパーで買ってきたたこ焼きを食べました。
思えば5年前の今頃、震災から2年と経っていない仙台は、住宅難でした。飛び込んだ先の駅前の不動産屋で「ここはいまリノベの工事をしているので内見できません。築40年ですが、リフォームするので綺麗にはなります」と言われた物件を、無理を言って外から見せてもらいました。リフォームの職人さんたちがたまたまお昼休みで出てきた隙を狙って玄関口から覗いた部屋のなかは、大工事中でした。シンクも床も取り外されていました。でも、だからこそ、ピカピカになるのだと確信し、リフォーム工事が始まったばかりのこの物件を押さえたのでした。
こうした幸運で決まった住居はその後、私の仙台での暮らしのパートナーになりました。来仙した2013年4月以来数ヶ月の間、ろくに室内のことがやれていなかったのですが、母が見かねてやってきてレイアウトしてくれ(家政学部出身者強すぎ)、その後は友達を呼んだり、同僚や学生たちを呼んだりする、わたしの自慢の城でした。おかげで、自分が、ホームパーティを主催するのが好きな人間だったと気づきました笑
いつからだったか、出張や東京行きなどで部屋を一定期間離れたあとの帰宅では必ず「ただいま」を言うようになりました。大学内での学事業務が増え、さらに職場での12月の大催事の着想を得た2014年2月からは、21時台の終バス(東京にいたときは深夜まで研究室にいた人間としては、21時なんて早すぎでしょと思いながら)で帰宅するようになり、毎年10月から12月は、バスに間に合わずタクシーで帰ったり、体調を崩して急患にかかった病院から身体を引きずるようにして帰宅することもありました。そんなときでも、あの部屋は私のコクーンであり続けました。

そして2016年の暮れ、必死になって身体を壊すまで働いたり考え事をしたりするのは「まちがいなのだ」という、人生最大といっていい発見をしたのもこの部屋での暮らしの中での出来事でした。「人の役にたつことこそ生きる価値である」という、いったい誰によってか、何によってか、私がずっと無自覚に信じ続けてきたこのことの大嘘に気づき、その大嘘という赤い靴に踊らされて生きてきた自分の身体と身体感覚について、半年と少しの間、考えを巡らせました。その赤い靴を欲しいと願いながら手を伸ばせない自分、どうにか手に入っても履き方が分からなかった自分、どうにか履いても上手に踊れない自分、ようやく踊れるようになった以上はその靴にふさわしく生きねばと念じる自分。お前はその靴にふさわしくないといつ誰に断じられるかと不安に慄く自分・・・そんな自分を省みるなか、思索の過程で起こったいくつかの出来事と、見えてきたいくつかの気づきを経て、新しい家を探そうと思い至りました。コクーンでありパートナーである(つまりまるで自分自身みたいなものである)この部屋を離れても構わないと思える転居先に出会うまでには、半年以上かかりました。

新居は、仙台において、今の職場とこれまでの住居周辺で友人知己ができるのと同時進行で、しかし別の場所に、別の文脈で出来上がっていた、ゆるやかな「家族」のようなコミュニティの近くに構えることになりました。職場は少々遠くなりますが、5年間の試行錯誤のなかでようやく、自ら車を買って運転する暮らしへとジャンプアップする自分になったので、おっかなびっくりですが、通勤のため乗ってます、毎日笑 車も家族なのだというこの感覚も、初めて知りました。車に積もった雪を下ろすこと、霜取りをすること、駐車場を見つけること・・・。怖がりで運転恐怖症の私が、おっかなびっくり、そういうことをひとつひとつ、やっています。(事故しませんように 祈)

そんなわけで、5年間の「さなぎ」の時代を、昨日、終えました。
仙台生活6年目が、そろそろ始まりそうな、2月半ばを、迎えています。


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2018年のテーマは、「この山を下りる」です。
さきほど、ぴたりと来ました。

2017年は「素直にひとり」
2016年は「斥力を使え」
2015年は「稜線を行く」
2014年は「聞くを愛する」
2013年は「ときわ」
2012年は「これを、ひらく」
2011年は「クラシック」
2010年は「やりたい」
2009年は「過去と未来をつなぐ」
2008年は「恩返し」
2007年は「一矢を報いる」
2006年は「実りの年」

下りるべき山は、いくつかあります。
物心ついてから、修行するために篭り続けた寺山
2011年から我知らず稜線を上り続けた小山
仙台に来てから急こう配をのぼり、1年前にたどり着いたそそり立つような岩山
20代半ばから仰ぎ見て、30代前半でふもとにたどり着き、30代後半で頂上に上り、そのまま下山する方法も分からずにいたカルデラ・・・。

また、象徴的な意味では、下山とは、修行僧が修行を終えて俗世に出ることも意味します。
そして、第一義的な意味での下山は、山登りの過程の中でもとりわけ危険で怪我や遭難に会いやすい段階とも言われます。

さらには、下山とは、がんばって上って来た山、一生懸命篭り続けてきた山を、視覚ではなく身体感覚で知ることのできる機会でもあります。だからこそ、じっくりと踏みしめながら、味わいながら、下りていく。
しかも、下山をすることで、今までいたこの山の向こうにある、さらに大きく雄大な山へのアタックの可能性が、拓かれます。もしかすると、あの山は、下山ルートのこの山と、きっと地質が似てさえいるかもしれない。

2017年は、大変お世話になりました。
2018年、改めてどうぞ、よろしくお願いいたします。

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奇妙で素敵な夢を見た。久しぶりできれいで大きな夢だった。書き残しておく。
どこかの見知った道を進んでいたら、大きくて白い2,3段の階段が、道をふさいでいた。階段の手前にはおばあさんというかおばさんがいて、私に何か話しかけた。私はその階段を上った。降りようとしたら突然、その白い階段は動き出した。白い階段は実はトラックだった。おばあさんはその運転手だった。私は階段にくっついていた取っ手を握り、宙ぶらりんになった。トラックはまるで飛ぶように走っていく。空を進んでいるようである。宙ぶらりんになりながら、「ああ、約束に遅れちゃう、今日は2時にサル―と会う予定だったのに。彼女と会うにも6時までしか時間がないから、それまでに会いに行かないといけないのに」と思っていた。見知らぬ街で不安の中で乗り過ごし続けるバスのように、白いトラックはまるで羽が生えたかのようにぐんぐん進んだ。トラックから手が離れそうな瞬間もありひやりとしたがあまり不安も感じない。そして、見知らぬおおきな繁華街を通り抜け、ふと気づくと、トラックは泊まった
彼女はたしか、フランス語で言った。「ほら、これが倉庫の鍵。これが、家の鍵。先に行って、開けておいて」。私は答えた。「見知らぬ場所の鍵を開けるのは怖いです」。すると彼女は言った。「ああ、そういえばそうだよね。ちょっと待っていなさい」。彼女はほどなくしてトラックから出てきて、家なのか倉庫なのか、その先にある黒ずんだ小さな建物の扉を開けた。中は、なだらかな階段状の小道が奥へと少し続き、行き止まりになっていた。その左手には長屋が並んでいた。長屋を進むと行き止まりで、その先には、不思議な人々が住んでいた。どうやら、みな、大道芸の芸人らしい。彼女が何か言うと、彼らはあっという間に、大道芸のピエロの扮装に変わった。私はうれしくなった。
おばあさんは、私に、一冊の本をくれた。それは、夢の中の私の記憶では、トモコがかつて私に見せてくれたことのある、とても素敵な本だった。ああ、サル―に連絡しなくちゃ。それと、トモコにも連絡しなくちゃ。ここでも結局私は、この二人にいきつくのだな。
白いトラックと、大道芸人たちのふわりと白い扮装と、本の表紙の白さ。長屋の苔むした黒ずみと、大きな繁華街の建物の黒さ(まだ夕刻になっていないはずなのに)と、本の表紙に掲載された一枚の写真の黒さ(確か何か写っていたけど覚えていない)。
あのおばあさんは、誰だったんだろう。あのおばあさんはきっと、もうひとりの私だ。私を迷うことなくどんどん先へと導いている。私が慌てても、不安になっても、へいちゃらで、私を次の扉、次の扉へと導いている。


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2017年のテーマ、を決めました。
「素直にひとり」にします。これで、今、すとんと来た。

2016年は「斥力を使え」
2015年は「稜線を行く」
2014年は「聞くを愛する」
2013年は「ときわ」
2012年は「これを、ひらく」
2011年は「クラシック」
2010年は「やりたい」
2009年は「過去と未来をつなぐ」
2008年は「恩返し」
2007年は「一矢を報いる」
2006年は「実りの年」

2016年は、本当にむずかしい1年でした。引力や重力はもちろん、斥力さえも自らのパワーに変えるという不条理の極みのチャレンジの日々。特に最後の3か月は、身体と心のきわを日々心眼で目視しつつ、細いしかしそれなりに芯のかたい木の枝を出来る限り地表奥深くに突き刺してしがみつきつつ、寄せては引く津波のようにやってくる疲労と仕事とに押し流されそうになりながら生きました。2016年の年末、ようやく海が凪いで、それでも次のしけや津波がまだ予測される緊張感は去らないまでも、こうして例年通り、新しい年のためのモットーを考えることができるのは、私が頑張った結果ではありますが、それでも、単にラッキーだったからでもあります。
生きながらえた偶然に、感謝しています。

そんな苦しさの中で気づいた、大切なことが2つ、ありました。
1)既存の社会とは、「人に害をなさないための工夫」だけを教えてくれる仕組みなのであって、「自分をいつくしむ」方法はただの一つも教えてくれない仕組みだということです。
20代後半に社会人と言われる立場になってからというもの、よく、「自分を大事にしなさい」「仕事しすぎ」「健康第一!」と叱られていました。でも私は、どうして叱られるのかわかりませんでした。「人のため」「いわれたことを従順に」「できるだけ失敗を少なく」することで、「人に害をなさないようにする」という、生まれてことかたずっと教え込まれてきたことをただただ一生懸命やっているだけなのに、なぜしかられるのか。人の役に立つこと、他者のためになること、社会のためになることしかやろうとしていないのに、いったいなぜ・・・? 
でも、今年身体を壊したことで多分、ようやくハタと気づいたのです。
なんだ!自分を大切にする」ということは、みんな、人から教わるのではなく自分で考えているのか!知らんかった!と。
だから、2017年からは、「自分を大切にする」という、私にとっては完全に未知との遭遇のフィールドに入っていくのだという思いがありまして、それをテーマに入れ込めたらなあと思っていました。

2)私は、一人ぼっちがダメな甘えん坊だと思って生きてきたのですが、実はむしろ逆で、「ひとりでいたい」という気持ちをぐっとこらえて人と一緒にいる努力をし続けて生きてきたのだ、ということです。ひとりでいたかったのに、誰かと話をしないといけない。でも、誰かと話すことはとても大変。だから、相手の意見をできるだけ優先し、自分の意見を特に持たないようにする。叱られそうになるよりも前に、叱られておく。あるいは、さきに謝っておく。相手質問を受けたら、「すみませんすみませんすみません」と言って終わりにする。モラハラ構造を、内在化させていたということです。
・・・。
だから、私はずっと、自分が無責任で自主性のない、意見をもてない、価値のない人間だと思って生きていたように思います。
けど、それは実は、組織や構造に組み込まれるように仕向けることを、「自分を大切にする」ことに優先して生きてきたからに過ぎないのでは? そういう命令を社会から受けたからただただ従順にそうしてきたのではないのか? もっというと、私はそのくらい、馬鹿がつくくらい、シンプルというか素直というか真っ白無色透明な単細胞人間なのだ、ということなのでは・・・? もちろん、「そうしろって言われるからそうしてるんだけど、なんか、あちこち痛いし苦しいし疲れるなあ」とはずっと思っていたのですが。

しかし、この年末、社会の垢やひずみや構造や記憶をすべてこそげおとして、ただただ「ひとり」になってみて、よいのだよ?と私の中の声がささやいているのが聞こえます。
その声の主は、何やらにぎやかに、誰かいろいろな人たちの発する声と、言葉を交わし合ってもいるようです。
つながりや、しがらみや、遠慮や、執着や、人の作った慣習を丁寧に洗い流した後に残る、梅干しの種のなかにひそむ仁のような私が、たぶん、ずっとずっと、無傷なままで、私の内側に眠っていたのではないかしら、なんて。それが、単細胞アメーバの鎧がずっとずっと、守ってきたのではないかしら、なんて。

その、内側の内側にいる私は、ひとりを愛し、ひとりで生きることを、とても大切に思っているのではないのかな、なんて。
2017年から、ひとりで生きることを、もう遠慮しない。勝手に、いもしない相手に対して遠慮しながら生きない。ただ私自身が好きになれるひと、もの、自らを高めたいと願うその思いに対して誠実にいるということを、始めたいと思います。
48年もギプスをしていたので、骨の形もまがっていると思うけれど、でも。丁寧にほぐしつつ、「わたし」というひとりを、マッサージしながら立たせて行きます。

2017年は、本当にたどり着きたい頂上があるなら、迷わずひとりでのぼります。
その頂きから「おーい」と叫んだら、向こうがわやあっちの山の頂に、やはりひとりでのぼっている影を認め、私は賑やかに、その声に語り掛けることでしょう。
遠慮や杞憂やうそっぱちの善人魂を、2016年のブラックホールに放り込んで、2017年にひょいと飛び移ります。

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今朝方、面白い夢をみた。
誰かと話をしているんだが、それが誰なのかはよくわからない。
話題に出るのは、私の知らないことばかり。
「…ってなに?」「あ、わかった、わたし、***って何のことか分かってなかった」「○○○って…とはどう違うの?」と尋ねるばかりの時間が、穏やかで楽しかった。

いろいろなところで口にしていることだが、私は15歳から、学校に行くことができなくなった。
理由としては、友達を作る方法がわからなくなったから、だと思う。
「自分はとてもだめな人間だから、誰かに守られなければ生きていけないし、守ってくれる人の言うことは聞かないといけない」と、いったいいつから思うようになったのか、たぶん小学校に入った頃からだと思うのだけど、中学生くらいのときにはもう、その理屈がそのまま通るように立ち回っていた記憶がある。
均衡が崩れそうになると、人にいじめられたり、人をいじめたりしていたような、気がする。
でも、高校に入ったら、人間関係をゼロからつくらないといけなくなった。
中学までは、小学校からの持ち上がりだったけれど、高校からは、知らない人ばかりが周囲にいた。
おろおろしていたら、クラスという社会が出来上がる前に、クラスからあぶれてしまった。
夏休み明けから、高校に通わなくなった。
そこで自分を、壊さずにいられたのは、そんな私を肯定した大人がいたからだ。
「今を味わうことが人生です」と、言ってくれたその先生は、数年前に亡くなった。

この思い出話を、こうして言葉にできるように、いったいいつから、なったんだろう?
今朝方みた夢を反芻してみて、ふと、高校1年の自分に手を差し伸べてみたくなった。

自分を主張するのではなくて、相手への関心に正直でいる生き方。
相手の関心を理解するために、質問をし続ける生き方。

ほんとうは、私はずっと、その生き方をこそ、したかったのだった。
「本当の自分」の礎は、自分の意見とやら、ではなく、人の意見をたくさん聞いて、理解できた事柄の束のほうだった。

少なくとも、家や学校では、そういう生き方を意識的に教わったことがない気がする。
このことは、家や学校を私が愛していないという意味では全然ない。
でも、そういう生き方を身をもって教えてくれて、そして肯定してくれる場所は、組織の中ではなく、一対一の人との関わりの中にこそあった。
それは、生身の人間との関わりだったり、本のなかの登場人物との関わりだったりしたが、いずれにも共通しているのは、それがみな、すくなくとも私においては存在している人たちであり、かつ、「他者を殺さない」という命題と、自分なりに真摯に向き合っている人たちだということだった。

天命を知るべき(?)年齢まであと2年足らずとなってわかったことは、
「クラスになじめない」という悩みは、性格や症例、ましてや過去のトラウマなどにあてはめて分析して済む問題ではなかったということだ。
あれは、小さい悩みでは、全然なかったということだ。
あれは、ものすごく重要な気づきの入口だった、ということだ。
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今ふと「あ、分かった」と思ったことがあるのでメモをしておく。あとで読んでも何のことなのか分からなくなっているかもしれないけれど、いや、でも、書いておけば、少しくらいは思い出せるかもしれないし。いや、やっぱり思い出せないかもしれないけれど、それでも。

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魂には老いるということが全然ない。幼い魂も、熟練の魂もない。

魂は、その磨き方次第で、輝きが増すことも減ることもある。でも、「磨く」ことは「研ぐ」ことであってはいけない。
たとえばダイヤモンドは、カットという人為的な工夫によって輝きを増す。
でも魂は、研いだり削ったりするのではなく、そこに積み重なる塵や埃を毎日丁寧にふき取り続けることによって、本来の輝きを見せる。
それは、魂はそれ自体が発光体なのに対して、ダイヤはそれ自体が光を放ってはいないからだ。

魂が光を放っていないようにみえるのにはきっと、理由はふたつある。
ひとつは、埃の堆積によって、光が失われたように見えるとき。
もうひとつは、ふき取るのではなく削ることによって光らせようとして、魂それ自体が壊されかけているときだ。

ひとつめのケースについて。
埃が堆積する理由はたぶん、ふたつある。
「ふき取り」つまり「問い続ける、考え続ける」という行為をやめたとき。
あるいは、魂ときっと同じ成分でできている、「好きなこと」という「水」につけることを、しなかったとき。
このふたつの理由が連関することによって、埃は堆積する。

ふたつめのケースについて。
削ることは、おそらくしないほうがいいのだ。
大きく傷をつけてしまうと、魂を覆う膜がはがれて、ナカミが外に出て行ってしまう。
しかし、研磨すると、埃があっという間にきれいになるので、ついつい、拭いたり洗ったりするのではなく、安易に、研磨することを選んでしまう。場合によっては、多額のお金を払って、研磨をしてもらうことさえある。
でも、研磨のやり方を誤ると、最悪の場合は、魂が溶けだしてそこから去ってしまう。

面白いことに、堆積する埃が、望まない研磨から、魂を守ってくれることもある。
埃は汚く醜く見えるけれど、それがこびりついているとき、研磨という「良心の刃」から、魂は、守られる。

そんなこんなで、魂の形や光は、人為的に変えることはそもそもできない。
だから、赤ん坊の時の私と、今の私は、きっと同じ魂を持ち続けている。
おばあさんになった時の私の魂は、10歳の時の私の魂と、だからきっと、同じだ。

魂には、年齢はない。
肉体年齢に惑わされて、魂も老いたなんて勘違いしてはいけない。
年を取っているからといって、その人の魂には、老いも若さもない。魂は、ただ、魂でしかない。
でも、魂は、弱くなっていくことがきっと、ある。
研磨によって形を変えられたり、傷をつけられたりしていると、魂はだんだんと、弱くなるのだ。
魂にはもともと、強さも弱さもない。強い魂というのは語義矛盾だ。

でも、傷ついていようといまいと、魂は、魂だ。
魂が本来持っているエネルギーを、自分や人に渡すことが一番できるのは、魂が肉体に宿っているときだ。
肉体をもたない魂にも、エネルギーの出し入れはできるだろうけれど、その出し入れが知覚されないという難点がある。
肉体は、その肉体を借りて魂がエネルギーを自分や人とやり取りできる時間があとどのくらいあるのかを、可能な限りでの明確な情報として、自分や人に教え続けてくれるためにある。

だから、肉体は、たとえて言うなら砂時計と似ている。
ことばという圧倒的な回路を使って自分と他者がやり取りできる時間があとどのくらいあるのかを、老いというメジャーが教えてくれるんだ。
肉体の老いはだから隠してはいけない。
肉体の老いを隠したりごまかしたりすると、その魂とつかってやり取りできる時間を、読み間違えてしまう。

そうそう、もうひとつ。
>そんなこんなで、魂の形や光は、人為的に変えることはそもそもできない。
だから、赤ん坊の時の私と、今の私は、きっと同じ魂を持ち続けている。
おばあさんになった時の私の魂は、10歳の時の私の魂と、だからきっと、同じだ。

さっきこう書いたけれど、じゃあ、10歳の私は、おばあさんになった私と、同じ人格なのかっていうと、それはもちろん、違う。
それは、10歳の私が知らないことを、おばあさんになった私は、たくさん知っているからだ。
人格は、記憶によって変化する。
でも、10歳の私とおばあさんの私は、同じ私だ。

となると、ひょっとしてだけど。
私の魂、あなたの魂、彼女の魂は、ひとつひとつ、違うものではないのではないかなあ。
ひょっとしたら、それは全部、おんなじ一つのもの、なのではないのかしら。
おんなじ一つのものだっていうことが嫌だと思うと、研磨したいという欲望が襲ってくるのではないかしら。
おんなじ一つのものだっていうことが素敵だと思うと、水につけたりふき取ったりするのが楽しくなるのではないかしら。
いや、でも、やっぱり、魂は複数形だという確信みたいなものも、その一方で、やっぱり、ある。
複数形だけど、ひとつ。矛盾してるけど、なんかそうとしか言えないような、そんなかんじの。

なんか、そんなことを、ちょっと、いま。
ああ、もう、自分が何を言いたかったのか、忘れかけてるけど、まあ、いいや。

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3月下旬、長崎へ出張に行っていました。
人生初長崎。
私はもともと、あまり「旅」には興味がないほうです。インドア派です。
でも、今回は、同行してくださった方の素晴らしい配慮や気遣いなどのおかげもあり、実に面白い時間を過ごしました。

キリスト教信者の布教が本気で行われた場所。
キリスト教排斥が、本気で行われた場所。
昔から、中国や韓国との関わりが深かった場所。
だからこそ華僑もたくさんいて、中華街も、りっぱな唐寺がある場所。
江戸時代、出島が置かれた場所。
港があり、昔から外に向けて開かれ続けてきた場所。
平地がすくなく、勾配の上に居住地が作られた場所。
海援隊が組織された場所。
たくさんの人々が、信仰ゆえに苦しみ続けた場所。
海の幸が豊富で、世界中の料理が食べられる場所。
60年代風の純喫茶がまだたくさん残っている場所。

ここに生きた人々が抱いた夢や希望の大きさ、広さにも、ここに生きた人々の苦しみや覚悟の壮絶さも、
どちらもスケールが大きすぎて、「劇的」であることこの上ない町。

でも。
私の最近のテーマは、それ自体ひとつの出来事にすぎない(たとえ大量殺戮でさえも)ものに、ドラマの文脈でお化粧をしたくなる思いに徹底的に抗って、その出来事そのものの輪郭を見極めるという挑戦です。
簡単ではないのだけど、腹をくくると、少しずつ、できるようになるのではないかと思っています。

ドラマの文脈とはつまり、その出来事に対して、他者になろうとする運動の産物だろうという気が、私はします。
私は、その出来事に対して、常に主体的にいたい(追体験する、という言葉さえも、ドラマ化に吸い寄せされてしまいそうで、私は使いたくない)。

例えば、納得して殉教したキリスト教徒がかつていたとするなら、その「納得」の内実を自分のこととして理解したいし、納得するどころか騙されて辱められて殺されたひとがいたとするなら、そこにどんな感情が渦巻いたのかを自分のこととして考えたい。人知れず餓死させられた人がいたら、それを可愛そうだと思わずに、死ぬ間際まで身体が否応なしに持ち続けたに違いない「生」への志向のバトンを想像し、受け取りたい。

今、たまたまキリスト教徒のことだけを例に出しましたけれども、それ以外のどんな人々に対しても、こういう思いは変わらないなあと思いました。

「かわいそう」という思いに、ここ数年、興味、価値も見失いつつありましたが、長崎で見聞したさまざまが、この傾向に、ぐぐっとさらに踏み込ませてくれたかなあと、そんな気がしています。
「かわいそう」かどうかは、本人の問題なんだ。ほかの人が決めることではない。
本当に大切なものは、まっさらな「それ」の、その向こうにだけ、ある。

そんな思いを抱きつつ、仙台に戻ってきました。
さて、新学期です。
仕事の山に押しつぶされそうになりつつ、それでも自分の固く長い軸を、大地に深く深く差し入れて、大きくまた一歩を踏み出したい、2016年度です。

写真は、長崎のブティック「亀山社中 日英同盟」で出会った、仙台の作家さん作のペンダント。テーマは「宇宙」だそうな。今はじめた修行が一区切りつくまで、しばらくはこれをつけてます。
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おかげさまで12の倍数の年齢を迎えました。
昨日はちょっと動悸がしたりして、ああ、いろいろと老朽化が始まっているのだなあとぼんやり感じながら眠りにつきました。

ここ5年くらい、自分の中の何かが急成長を始めて、いろいろなものを突き破って、ジャックと豆の木に出てくる豆の木みたいにすごい勢いで成長しているなあ、そんな印象を自分で持っています。
そのことと連動してなのでしょう、毎日がとても、とても、忙しいです。
「仕事をもっとセーブしなさい」
「無理は禁物」
「体調管理も能力のうち」
などと噂されたり直接言われたりしながら、一生懸命生きている感じ。
そんな毎日を過ごしているなあと思いつつ、こうして節目を迎えてみて、さきほどふと、思いました。

さよならだけが 人生だ

ということば、ありますね。
一期一会とか、人との出会いは儚いものだからたいせつにするといいということのたとえだとか、そんなふうに教訓的なニュアンスで言い換えられる言葉なのだろうなあと漠然と思っておりましたが、なんだかさっき、そうじゃないぞって気づいて、すとんと、腑に落ちました。

折しも、卒業やら転勤やらと、異動と移動のシーズンです。
ですが私は、そんなシーズンであろうとなかろうと、「この人とは明日もう会えないかも知れない」と、私は常に、思いながら過ごしているらしい。
普通に授業で出会う学生たちにせよ、職場の同僚たちにせよ、家族にせよ。

でも。
「もう二度と会えないかも知れない」と思っているからといって、私はどうやら、それを悲しいとか寂しいとか、あんまり思っていないみたいなんです。いやむしろまったく逆で、大好きで大切で仕方がないものや人々に対してしか、「これが最後かもしれない」と毎日心から思ったりはしないんじゃないかということに、さっき、気づきました。そのくらい大切なモノたちや人々に、私がこんなにであってしまっているという事実は、圧倒的。
だから今のところ、私には、別れがあんまり寂しくありません。

「好きになる」ということは、その「好き」の対象とはもはや、別れるということが、ないんですな。

だから、「さよならだけが 人生だ」という言葉を翻訳したら、「私にはこんなに大切で大好きなものばかりがある。人生ってすげえなあ」という感じになるんです、私の場合。

でも、家族とは、もうちょっと、ちゃんと一緒にいるようにしないとだな苦笑
はい、そうします。
あ、病院、行きますちゃんと。誓います。

皆さんの門出を心からお祝いします。

ご卒業おめでとうございます。
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