今はなき、早稲田大学第二文学部が、私の母校である。
夜学だったので、昼間はたっぷり時間があった。

ひょんなことでフランス語をやりたくなり、飯田橋にある日仏学院(今はアンスティチュ・フランセという、キーボード入力がしにくい名前に変わってしまった)に通う傍ら、ある会社で週5日働いていた。
働くと言っても、なあ・・・そんな、大したことはしてなかったのだけど・・・
それでも、19歳から23歳までの4年間、大学の4年間とほぼかぶる期間お世話になったから、私の母校は、早稲田の二文だけじゃなく、この会社でもあった、と思う。
いや、正直に言えば、大学で受けた授業よりも、その会社での経験のほうが、よほど鮮明に覚えているくらいだ。

ツイッターのおかげで、当時お世話になった方Kさんと連絡が取れ、今日は本当に久しぶりで、その会社に顔を出してきた。
顔を出すのは15年ぶり。
ということは、最後にお邪魔した時私はおそらく、29歳だったということだ。
当時お世話になった方々の多くが退職なさっていたけれど、うち何人かが、すっかり重役になって残っておられた。今日はそのなかの4人にお会いできた。

私が19だった時に、多分20代半ばだったKさんと、30代前半くらいだったIさん。
私が44になっているのだから、おふたりもその分お年を召したわけで・・・。

「人間、80歳くらいまで生きるとして、自分の人生はあと20年ほどなのだと考える。過ぎ去った20年の速さを思うと、残りの人生が本当に少ないのだと感じずにはいられない」と、15年前はおろか20年前とほとんど変わっておられないIさんがおっしゃった。
Iさん。フランス語の使い手で、あの会社で最前線でご活躍だった姿にあこがれて、わたしもフランス語が早くできるようになりたいと願った。
二十歳そこそこの懐かしい記憶だ。

わたしも、44になって、「あ、人生の後半戦の2回表に入ったんだな」と感じたものだけれども、わたしよりももう少し年長であるIさんとKさんはきっと、その思いがもっと強い。
「老い先」ということを最近つくづく思うと異口同音におっしゃった。

大学というところに勤めていると、若い人たちに囲まれているので、自分もけっこう若いような気持についなってしまっている。
まあ、私はけっこう童顔なので、年齢相応に(良くも悪くも)見てもらえないことはあるにはあるのだけれども、それでも、身体の衰えは、日を追うごとに少しずつ自覚せざるを得ない。

本当に得意なことに意識を集中して、それに本当に力を注がなくっちゃTと、お二人に近況報告に耳を傾けていただきながら、つくづく思った。

20代が20代だけで、40代が40代だけで、60代が60代だけでかちかちに凝り固まった人間づきあいとは、まったく別の次元の場所に行こうと思う。
超高齢化社会に突入して、しかも放射能を心配しないといけない、まさかまさかの21世紀の日本だけど、とんがった20代と受け身の40代が、血気盛んな60代と懐の深い20代が、あっちがわの20代とこっちがわの20代が、優柔不断の40代とレアリストの20代が、互いに予想外の出会いかたをし、そうした出会いがいくつもあるがゆえに、結果として皆が一瞬でもピカっと光るような、そういう場所を作ろうと思う。

独り言みたいなブログですみません。
1月13日に、あることを始動させようとしていて、そのための決意表明の、でも、独り言でした。

Iさん、Kさん、今日は本当にありがとうございました。
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ちょっと必要があって、親類縁者の数をカウントしなければならなくなった。
父方のほうは、消息が途切れがちになっているのでそもそも数えることができるだけの情報が少ないのだが、母方のほうは、どうにか数えられそうだなと思って、正の字を書いて数え始めた。

でも。
さっきから何回もやり直しているのだけれど、数が合わない。
祖父

母の配偶者 つまり私の父
私の兄弟姉妹
私の兄弟姉妹とその配偶者
私の兄弟姉妹とその配偶者のところに生まれた子供たち つまり私の甥姪

母の兄弟姉妹
母の兄弟姉妹の配偶者、つまり私の義理の叔父叔母
母の兄弟姉妹とその配偶者のところに生まれた子供たち つまり私の従姉弟たち
母の兄弟姉妹とその配偶者のところに生まれた子供たちの配偶者 つまり私の従姉弟たちの配偶者
そこに生まれた子供たち つまりわたしの・・・ん? はとこ?だっけ?

祖父がこの世に居なかったら、あるいは祖母と出会うことがなかったら、この世に存在していなかった人たちが、こんなにたくさんいるんだな。

そしてちょっとした感慨
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2012年のテーマは「これを、ひらく」
2011年のテーマは、「クラシック」
2010年のテーマは、「やりたい」
2009年は「過去と未来をつなぐ」
2008年は「恩返し」
2007年は「一矢を報いる」
2006年は「実りの年」

だった。
2012年は、確かに、これまでの私にはおよそ思いつきもしないような場所を経由した新しい回路が、幾つか拓かれた感じだ。
ガタピシとショートしてばかりではあるが、それらが拓かれた、ということがまず大事。
2013年のテーマ、はて、どうするべか・・・。
今ぱっと、思いついてるのは、「これを、はこぶ」なんだが・・・。
あるいは、「これを、むすぶ」でもいいかな・・・
でも「はこぶ」のほうが大事かな・・・

あるいは短いワードにもどるか・・・
「実践」とか。「踏み出す」とか。

悩ましい。
まだ少し時間があるから、しっかり悩もう。
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e0129547_19552899.jpg札幌でのシンポジウム、パリ第三の指導教授の来日講演通訳、月末の職場での日仏語での発表と、一ヵ月でこんなにやったら身体もたないんじゃないの?くらいの濃密な時間が、いったん終わった。
得たもの、学んだもの、教訓になったこと、あまりにいろいろありすぎて、ここには到底まとめられそうにない。
拙い通訳で、皆さんにはご迷惑をおかけしたし、発表の原稿がギリギリまで上がらなかったりなど、常にヒヤヒヤだった。
でも、いろいろと出会いがあったなあ。終わってみれば、楽しかった。
11月にはいって、これで空気の流れが変わりそうだ。いったん棚上げにしてきたもろもろのことも、きちんとしなければ。

ところで、1週間ほど前から、この忙しさのラストスパートの間隙をぬって、肉筆で一通、手紙を書こうとしていた。

Hermine Davidのアンニュイな様子に興味をひかれて続きを読む方はこちらを
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e0129547_1113852.jpg8時ちょい前を目指して家を出て職場に向かう途中、ちょっと考え事をしていてふと足もとに目をやったら、きらりと光る丸いものが。あれ?ひょっとしてビー玉かな?と思って手を伸ばしてみると、なにやらぬるりと冷たい感触。うわ、なに、食べ物?? でも、なんだかとても綺麗だったのと、その時の考え事の内容をできることなら忘れてしまいたくなかったのとで、そのまま拾い上げて地下鉄に乗車、職場の給湯室でぱぱっと洗って・・・。しばらく眺めていましたが、手が滑って、あららとヒビが入ってしまって残念。
 同僚のAさんが出勤してきたので尋ねたところ、なんでもこれはぷにょぷにょ玉というものだそうで、縁日などで、金魚すくいに見立てての「ぷにょぷにょ玉すくい」というのがあるらしい。ググってみたら、あるある、ありました。ちいちゃくて固い玉で売られていて、水につけると何倍もの大きさに膨れて、透明にキラキラ輝き、ぱっと見ビー玉みたいに見えるのだそうです。
 アマゾンで、お試し価格で100円くらいで売られてるのも見ました。夏場にこんなのがあったら、ちょっと涼やかかな。でも、次の夏はもう、あと8か月も先だですが・・・
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いろいろと予定も詰まっていたりなんだりしているのだが、どうしても初日に見ておきたかった「希望の国」に行ってきた。
公式サイトを見ただけだと、この映画のよさは見えないのではないか。
「それでも世界は美しい」という言葉でくくろうとすると、そこからほとんどのものがこぼれ落ちてしまうと思った。
以上すべて、作品を賞賛しているつもりで書いている。

内容に踏み込んだことは書く気はないけれども、以下、お読みになりたい方だけ。

お読みになりたい方だけ
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昨日、ランス・アームストロングが、ツール7連覇のタイトルを剥奪されることになる、とのニュースが世界中を駆け巡りました。

一生食いっぱぐれがなかったに違いない職場、心を尽くして私を育ててくれた人々のいる職場を辞して、背水の陣でフランスに飛び出した私にとっての天王山は、2001年7月。
圧倒的な強さでその年のツールをも制したあなたの雄姿は、心の支えでありました。

起きる、窓を開ける、朝飯を食べる、パソコンに向かう、テレビでツールの生中継を見る、昼飯を食べに学食に行く、生中継の続きを見ながら論文を一行でも多く書き進める、番組が終わる、論文を一行でも多く書き進める、夕飯を食べに学食に行く、論文を一秒でも多く書き進める、シャワーを浴びる、寝る。

これを、7月は毎日繰り返していました。
一日の動きがすべてプログラミングされていたロボットのように日々を過ごしてた私にとって、ツールの生中継だけが、唯一偶然が息づく場所であったと言えます。
けれどもあなたの勝利という「偶然」には、あなたの他を寄せ付けぬ圧倒的な強さによって、必然にも似た「安定感」がありました。
「きっと勝ってくれる」と強い期待を込めて人を応援することは、負け戦の渦中にいる自分に、一服の清涼剤どころではない救いをもたらしてくれます。

スタミナ切れを起こしたローラン・ジャラベールを励まそうと声をかけましたね。
総合優勝を争っていたヤン・ウルリッヒが転倒し路肩から落ちたときに、それを気にしてしきりに後ろを振り返っていましたね。
そこに、「穢れなきスポーツマンシップ」を認め、VHSの録画テープを巻き戻しては見入ったものでした。
まだ「萌え」なんて言葉はなかったころでした。

インデュラインのマイヨ・ジョーヌよりもふたまわりも小さいその黄色いジャージは、家の中では母語でないことばを必死で操ろうともがき、ひとたび家の外に出れば身体の小ささゆえにバスの中で人に押されておどおどしていた私には、救いの星のようにさえみえたものでした。
あなたにはマイヨ・ジョーヌが似合わないという意見も聞こえてきたけれど、私の喋るフランス語は、あなたの着るマイヨ・ジョーヌと同じくらいに私には似合わないのだと思って、気持ちを立て直していたものでした。

タイトルがはく奪され、あなたが競技の世界から追放されるという現実と、私のこの記憶は、どちらも現実で、どっちかを消し込むのは、無理だよ。

また一つ、時代が終わり、新しい時代が始まるんだなあと、ひとつ、頁がめくられたのだなあと感じた、昨日でありました。

そういえば、癌になる前のうんと若かったあなたがはじめてのツールでステージをひとつ制したときの、クソ生意気そうな写真が載っている雑誌が、たしか家のどこかにあったはず。
礼を知らないむかつくガキだと思いながらも、あのステージを見た日のことは、よく覚えていますよ。
今度、探してみようと思います。
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はじめての海外旅行は、19歳のパリだった。
大学に入学した後になってフランス語をやりたくなって、第二外国語はロシア語だったのに、NHKの講座でフランス語をなめるように勉強した。
ロシア語はみにつかなかったけど、フランス語はみにつくことになった。

そのままフランスってとこを見てみたくてたまらなくなって、親に内緒でどんどん準備した。
大学が夜学だったので、昼間はアルバイトをしてお金をためることができた。半年分のアルバイト代をため込んで、大学1年の3月に、一人で10日間パリをほっつき歩いた。
ほっつき歩く、というのが正しい。自分がどこを歩いているのかも分からなかった。
メトロに座るときも、補助椅子を殴るようにしておろして座ってた。緊張していたから。
ほんとうの珍道中だった。よくも無事に10日間を過ごせたものだとあきれる。

旅行前に、アルバイト先の上司でフランス語を専門にしている人から、「困ったらこの人を訪ねなさい」と、当時の日本館の館長さんの名前をお聞きした。
私は、お会いしたこともないその人にアクセスするなんて及びもつかなかった。
だから、全然、連絡をとる努力もしなかった。
でも、あの時、遠慮せずに、そして面倒くさがらずに、さらには勇気をだして、アクセスすればよかったのに、と今振り返ってつくづくそう思う。

人が旅に出るというとき、「この人を訪ねなさい」と人に言われたら、先方が、訪ねられて本当にうれしいと思うか、あるいは迷惑と思うか、というのは、乱暴なことを言うと、ある意味あまり問題ではない。
大事なのは、「この人を訪ねなさい」と言ったその人が、旅立つ人に意識的にしろ無意識的にしろ、託している思いのほうだ。
誰かが旅立つとき、その人には、その人が知りもしないところで、さまざまな「思い」が預けられていると思う。
その「思い」の全貌を、旅立つ本人が思い知る日は来ない。一部のみ、推し量ることができるのみだ。
だからせめて、口に出された「思い」に対してだけでも、自覚的でありたい。

そんなことを思うのは、今私があんまり、くたびれていないからだろうなあ・・・
くたびれちゃってると、そんなこと絶対思えなくなるからなあ・・・
だからせめて、くたびれていないときだけでも、自覚的であろうかなと。

白黒で貼りつけたのは、孤島に流れ着いた裸体のシュザンヌ(ジロドゥ『シュザンヌと太平洋』より)の挿絵。
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フランスで、日本の衣料品を買ったことはこれまでに一度もなかったけど、今回はじめて手が伸びでしまった。
図書館に行く道の途中にある「ぶきや」。
ウインドウには、どことなく西洋受けするようなデザインと色調の根付やお箸入れが並んでいるのだが、それらの並び方がどことなく落ち着いた感じだったので引きつけられて、店内に入ってみた。
白を基調とした店内に、手拭いやら何やら日本のものが「品よく」並べられている。
(秋葉原にも同じ名前のお店があるらしいけれど、だいぶ感じが違うお店らしい)
ここで売っていた、奈良のメーカー「幡イノウエ」の蚊帳素材のシャツを買ってしまいました。
この写真に載ってるのと色違いの、桜色のやつを。
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蚊帳なので、ぱりっとしてる。麻とも違う質感で、背筋が伸びる感じ。
このお店、オリエンタリズムに毒されていないと言うべきか、それを十分距離化しているというべきか、とにかく、なかなか、品ぞろえがよかったです。
日本製の包丁も簡単に手に入ります、ここだと。
ナイフや包丁は、日本のものの切れ味がほんとにいいからねえ。

Bukiya Paris 12 Rue Ste Anne 75001 Paris
月曜~土曜 12時から20時
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これ、ネットに転がっているのを拾ってきました。ポルト・ド・モントゥイユの蚤の市のパノラマ写真。
けっこうリアルに現実とらえているけど、中に踏み込むともっともっとごちゃっとしてる。
でも今日は写真は全く撮らなかった、自分では。

日本にいるときは、もともと旅好きというほどでもなく、買い物好きというほどでもない、と思う。
ンなこと言うと、家族から突っ込み入りそうだけれど。
でもほんとのところ、買い物は、必要やストレス解消のためのものであって、買い物そのものを楽しむためにはしない。
けれども、フランスの蚤の市での買い物は、買い物そのものが楽しめるので面白い。
たぶん、小売人の人や、買い物に来ている人たちとの、ちょっとしたふれあいみたいなのが、好きなんだと思う。

朝7時から開いているとガイドブックには書いてあったけれど、8時に行ったのにあれ、まだ店開いてないじゃん・・・と思ったら、今日は19日、ラマダン明け祭りではないかいな。
そうかあ、しまったなあ、なんて思っていたら、それでも8時半くらいにはだいたいどこもお客で賑わい出した。
えらいぞ、商売人!

衣類は、ハンガーにかかってるものはたいてい値段が個別についていて高い。店頭にごちゃ!と積み上げられている服の、10倍くらいの値段がついている。
ある店ではハンガーにかかっているのに、ほかの店では十把一絡げの値段がついているよく似た衣料品というのはあるものだが、、そういう場合は、「ちょっとお、あっちの店ではもっとうんと安かったわよ」と言ってもあまり意味がない。
20ユーロとつけられた衣料品は、店の人がそれなりに自負を持って20ユーロという値をつけているのであるからして、それを5ユーロで売ってくれ、あっちのあれと対して変わらない、みたいなことを主張すると、ほんとにそっぽを向かれちゃう。
なので、できるだけ、うずたかく積まれた山と、ひたすら取っ組み合いを行うのが、よい。
どうしてもその20ユーロの品物がほしいなら、15ユーロ位を目指すべく、半額じゃないと買わない、と言ってみる。

こういうところでは、フランス語ではなく、へたくそな英語と日本語をごちゃまぜにして、「素の自分」というフィクションにおいて買い物をするのがいい。
そうしていると、インドを思い出す。
インドは多言語国家だ。そもそも、話しかけた相手が知っている言葉をこっちら知っているとは限らない、というのがデフォルトの状態だ。
そういう状態での人との邂逅は、面白い。
そういう時のほうが、心の回路が開く。理詰めにやっていたってしょうがないからだ。
そうしていると今度は、店に来ているお客さんの面白い服装に目がいって、「あ、そのスカート素敵。どこで買ったの?」なんて、見ず知らずの人に平気で質問できちゃったりとか、する。
そして改めて周囲を見渡すと、蚤の市で本気で服の山をあさっている人の中には、5ユーロのワンピースや1ユーロの口紅をここで買い求めては、安価でしかも本気でおしゃれを楽しんでいる人たちがいるのだなと実感する。
衣類の山から、お気に入りの一枚を、自分のものさしだけを頼りに選び出すのは、なんとなく、それじたいがすでにクリエイティヴなことだという気がする。

私には、こういう心の回路の開き方は、日本では、できない。
なんでかな、頑なになっちゃうんだよね。
でも、こういう回路が、日本にいながらにして開いてくれるものも、少しだけど、ある。
それが今の私にとっては、飴屋法水の表現であり、阿藤智恵の創作哲学であり、濱口竜介がつくる「フィクション」なんだ。
この回路は、できることなら、「どうして開くのか分からない」ままにしておきたくない。「開こうと思えばいつでも開ける」ものにはならないにせよ、「ここに、この回路が、たぶん、あるよ」という希望を持てる状態に自分を置きたい。
そのためには、この人たちのやっていることを、ものすごく本気で勉強しないといけないなあと思っているのである。

え、何を買ったかって?
内緒です。
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