カテゴリ:演劇映像芸術音楽本…( 51 )

ウルトラミラクルラブストーリー [DVD]

VAP,INC(VAP)(D)

 
前の大学にいた頃、まだ専修に進級していない1年生を対象とした「選択基礎演習」というのを2年間担当した。今年は、この2年目のクラスにいた皆さんが、順当に行けば大学を卒業する年にあたっているはずで、感慨深いものがある。そういえば、あの学校の最後の授業が、このコマだった。
この授業の冒頭で、2年連続して、横浜聡子『ウルトラ・ミラクル・ラブストーリー』を見せてディスカッションをしたものだった。気づいたらあれから3年半が経過した。折も折、今の職場の4年ゼミ(つまりあの「選択基礎演習」2年目の皆さんと同じ学年ということだな)の面々と一緒に、3年半ぶりで昨日、この映画を見た。3年半前といえば、ちょうど濱口竜介レトロスぺクティヴが、今はなきオーディトリウム渋谷で開催されていた頃。あまりの熱量に、横浜聡子作品が、あのあと私の視界から消えてしまっていた、ということに、昨日、4年の面々に何を見せようかと考えていた折に思い出したのだった。「視界から消えた」という言い方は、実感として正しい。私が飽きたのでも忘れたのでもなく、ただ、視野から消え失せてしまっていたのだった。
はじめてこの作品を見たのはいつだっけかなあ。確かリトルモア地下で飴屋法水の「三人いる!」に通いつめていた時に、この映画のポスターを見たような気がするなあ。

今改めてこれを見て、つくづく、いい映画だなあと実感する。かつて見た時も好きで好きでたまらない作品だと思ったけど、今になってこれを見て、作品の奥にまでさらに深く潜った気がした。
昨日から今日にかけて、いろいろとほかの仕事をしつつ、昨日の作品鑑賞を振り返っていてふと気づいたこと。今日の今日まで、この「陽人」によく似た人が、私の周囲にはたくさんいるなあと思ってきたし、実際それはそのとおりなのだけれど、ひょっとしてひょっとすると、私のことをこの「陽人」に似ているって思っている人たちも、もしかするといるのかもしれない。自分では到底そんなこと考えられもしないし、むしろたくさんの「要人」と関わりながら生きているぶん自分は「町子」に近いよ、というのが主観的な思いだけれど、でも、人が私のことをどう考えているかなんて、私には全然わからない。意外にも「間瀬は陽人っぽいとこある」なんて、そんなふうに思われたりも、するのかもしれない。

それにしても(ネタバレ含む)
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e0129547_13143578.jpgせんだいメディアテークで展示「記憶と想起」をピンポイントで2時間だけ見てきた。酒井耕監督から、この展示のなかで、東北三部作(酒井濱口共同作品)のカメラ位置「Z」が再現されている部屋があるとお聞きして、是非見たかった。時間がひどく限られていて、ほかの映像作家の作品を昨日はほとんどゆっくり見られなかった。会期はまだ大丈夫だから、これはいずれ、リベンジするとして。

東北記録映画三部作』(酒井耕 濱口竜介 共同監督作品、2013年)は、東北で震災に直接的・間接的に深く影響を受けた二人の対話の集積だ。この「二人」は、友人どうしのこともあるし、誰か一人と、映画監督のうちいずれか、ということもあるし、同僚どうしのこともあるし、夫婦であることもあるし、いろいろだ。

この三部作、カメラワークがおもしろい。ふつう、対話している二人を撮影しようと思ったら、カメラは横からとか、片方の人の後ろ側から、映像を撮っていくことになる。そうすると、画面には二人が映る。あるいは、片方の人の身体の横か上にカメラをおいて、もう片方の人だけを捉える。普通はそうなる。
でもこの三部作では、どのペアも、二人それぞれが、正面から画面いっぱいに捉えられるシークエンスが長く続く。でも、画面にうつるその人が、自分の相方と「向き合って」話をしていると自覚していることは明らかである。それは、その人の受け答えに、相方がきちんと声で応じているからだ。
相方は、その人の正面にいて、カメラの向こうからその人に語りかけているのか? 仮にそうだとしたら、その人の目線はどうしてきちんとカメラのレンズに向いているのだろう。カメラの上にいる相方に向かって語りかけるなら、目線はレンズの上になるはずだ。

この謎は、以前から、「わすれん」(3.11をわすれないためにセンター)の一プロジェクト「かたログ」で、両監督がすでに解き明かしていた。それが「Z」型のカメラ位置。カメラは常に二台あり、話者二人をそれぞれのカメラが正面から捉えている。片方の話者の脇に、相方を捉えるカメラがある、という位置関係。
つまり、視線ではカメラをみつめながら、声は、カメラの真横にいる相方のそれに答えているのである。
相手を見つめて喋るのではなく、相手がそこにいると十分に知った上で、視線はカメラを、声は相手をそれぞれに指向しているのだ。

この二人の被写体の関係は、横たわる人とその人に語りかける人の関係と、すこし、似ているかもしれない。
寝たきりだったり、入院していたりなどで、視線を見舞う側に差し向けることができない場合でも、その人が、声を見舞う側に差し向けることで、「対話」は成立する。

この「声」と、「ヴィジョン」とを逆にしたら、たぶん、対話は成立しない。
相手の目がどれだけしっかりとこちらを見つめていたところで、その相手がこちらに差し向ける声が、ほかの人に向けられていたら? そんな実験はしたことがないが、こちらの目をしっかりと見つめながら、こちらに声=意識を差し向けてくれないその相手は、要するに、そこには「いない」のだ。その時私が感じるのは、寂寥感であり、絶望感であり、孤独感であるだろう。
加筆。いや・・・ことはそんなに単純ではないかもしれない。その人の「声」が私を指向していないことが明らかでありながら、こちらを見据えるその視線に揺らぎがない状態というのは、単なる寂寥感では片付けられない、もっと重大なことが、私におこるかもしれない。ふとそんなことを。ここは、熟考が必要である。

ことほどさように、「声」は重要である。
(もちろん、じゃあ会って話すよりも電話で話すほうがより良いコミュニケーションを取れるのかというと、それは違う。これは、まったく別の問題だ。これについて今日書いている時間がないのが残念)

「声」は、それがこちらに差し向けられることによって、相手の意識のなかに、自分が「存在している」ということを、はっきりと肯定する。
考えてみると、これにはびっくりである。
私は、どんな種類の、どんな年齢層の、どんな尺の授業でも、あらゆる授業で必ず言うようにしているのは、「あなたの考えていることを、私は、知らないし、わからない」ということなのだが、相手の「声」が自分に差し向けられたときだけは、この「わからなさ」にちいさく穴があき、光がもれる。このときだけは、少なくとも、相手の意識のなかに、自分が存在しているということを、私は、肯定できる。だからこそ、「あなたの考えていることを、私は、知らないし、だから全然わからないけれども、ただ、あなたの声が私に差し向けられているときだけは、私という存在があなたの中に認識されている、ということを、わかります」と言い切ることが、できるような気がするのだ。

ただ、このとき、問題となるのは、「声」がこちらに差し向けられていると確信できる、その理由がいったいなんなのか、ということである。
どうして私たちは、その「声」が自分以外の誰かに差し向けられているか、あるいは自分に差し向けられているかを、感じることが、できるのだろう。
信頼があるから? ではその信頼っていうのはいったいなんなのか?
ひょっとしたら、その「信頼」さえ伝われば、「声」は、それこそ「沈黙」すなわち「発語の不在」に取って代わることさえ、できやしないだろうか?

ルイ・ジュヴェが、若き俳優たちに指南するときによく口にした言葉が思い出される。
「君と、相手役と、観客と、三人で話をしているつもりで喋りなさい」

昨日は時間がなくて、三部作のうち「なみのこえ 気仙沼」のごく一部だけしか見られなかったのだけど、「喫茶マンボ」の二人のシークエンスを5~6分ずっと聞いていて、改めて、「ああ、私はこの二人を好きだし、理解したいとおもう」という気持ちになれた。以前この映画を全部見たときもそうだったけれど、たった5~6分見ているだけでも、そういう気持ちになれるのだ。
それは、このカメラ位置「Z」が、「声」に乗せられた相手への信頼を、ある意味で可視化するという役目を、優れた形で果たせているからなのだろうと、おもう。

この二人はもちろん、私のことなんか知らないけれど、でも、二人のあいだで「声」がとても誠実に届き合っているとき、それを目撃する私は、ひょっとしたら、ジュヴェの言うところの「観客」になっているのかなあ。
3月のジュヴェに関する国際学会がパリで開催される。ジロドゥとジュヴェについてずっと考え続けてきた縁もあり、ここにエントリさせてもらっているので、そろそろネタを考えないといけない。たぶん、ここで、この三部作について、私はごく短くではあるかもしれないが、確実に言及することになるだろう。

「声」あるいは誰かを志向する「声」には、自己と他者を永遠に切り分ける闇をさしぬく力がある。「声」は、闇という閉じたものを、拓く。開く。ひらく。そこに、光が、ときとして弱々しく、ときとしてさしぬくように、一本の線を描き出す。
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たった今、Tv5mondeで、「パリ~狂乱の時代を生きる」(PARIS ANNÉES FOLLES)を見た。
たっぷり1時間半のドキュメンタリ。残念ながら日本語字幕はついていない。
けれども、これを見ていると、「あのパリ」がまったく他人事でないパリだったということが、分かると思う。
ホロコーストも、原子爆弾の投下も、まだ先の時代の人々が、どんなに私たちとおんなじ人々なのかが分かる。
100年前は、カメラに映る側も、映す側も、私たちからみると、なんとまあ、危なっかしい。
けれど、どんどん新しい技術を手に入れてそれを子供のように試してはまって抜けられなくなって人を傷つけ反省しそしてまた次の新しい技術を手に入れて。。。を繰り返している私たちも、当時の人たちと同じくらい危なっかしいのだ。
この映像がそんな感想を私に持たせることができるのは、一つには、多くがカラー映像だからだ。
白黒写真で見慣れたはずの1920年代パリのことを、私は本当に全然なにも知らなかったのだなあと思い知らされる。
あの白黒写真に写っていた人々と、私は、同じ、なのだ。

それにしても、カメラに映る人々の正直さ、涙ものである。
私たちは、100年で、こんなにも小賢しく、視野を自ら狭めてしまったんだなあと思う。
べつに、100年前に生きてみたかったと思っているわけではないけれど。

日曜深夜にももう一度やるらしい。もう一度見ようと思う。録画の仕方がわからないので涙、いろいろと、目に焼き付けるために。
モンパルナスのカフェに集う人々、キャバレーのトップレスのダンサーたち、路上を行進するファシストたちのぴったりと息の合った動き、モンマルトルとモンパルナスを結ぶマラソンレースや、モンマルトルの酒飲みマラソンや・・・。歴史の一ページとしか思われなかった一つ一つが、一気にこちらに迫ってくる。
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十六夜の月―阿藤智恵戯曲集

阿藤 智恵 / カモミール社

1月の終わりに、「「十六夜の月」(阿藤智恵)を声に出して読む会」というのを開催した。
授業の一環だし私も現場経験などおよそないので、上演というほどの形は取れず、「声に出して読む」に主眼を置いた。リーディングと言ってしまうとそれも違う気がした。
教室という空間をできるだけうまく使いつつ、それでも普段の教室よりももう少し異次元空間に入ったような印象が得られるようにと願いながら、10月頭から、いろいろと試行錯誤を繰り返した。

家族を殺され、食べ物もほとんどない中でゲリラ活動を続ける17歳と、
蝶よ花よと育てられ「成人の祭」を迎えるその日を前に心ちぢに乱れる17歳たち。
両者の「日常」を複眼的に描きながら、その邂逅のさまをファンタジックに現前させる物語。

・・・まあ、オビに紹介文を書こうとすると、こんな感じになるのだろうか・・・
しかしなあ・・・まあたしかに宣伝文句としてはこのあたりなんだろうけれども、私がこの作品に惚れたのは、このファンタジー性云々のことじゃない。

四か月間、ただただ声に出して読みつづけながら、いろいろなことを考えて、テクストに書かれた声の「ほんとう」を探る、という極めてシンプルかつ正解がどこにあるのかまったくわからぬこのとりくみに、なぜこの本を選んだか?

作家が友人だったからということはまあ、あるにはある。
女子の人物が多いため、女子大でのリーディングにはうってつけだったということもある。
でも、それだけではなくて、一読して「ああこの作品は好きだな」と思い続けてきたから、というのが一番大きい。
なぜ好きだったのか?
「好き」の理由を一言で言えたら、こんな楽ちんなことはないんだが。

私はかつて、「好き」という感情に関しては、『羊たちの沈黙』のレクター博士の名言を引きたくなった。
一字一句正確に覚えているわけじゃないけれど、確か、
「人は毎日見ているもの、慣れ親しんだものを、欲しくなる、好きになる」
とか、だいたいそんな意味だったかと思う。
でも、「好き」というのはもっと幅があるなあと最近では思うようにもなった。
つまり、「毎日」というのがいつの毎日なのか、「慣れ親しむ」というのがどんな環境下でなのか。
もしかするとそれは、物凄く遠い遠い、記憶の遠いかなたのことかもしれないなあと。
いつ、どこでと言えない、いろいろなものが複合的にあわさったものなのかもしれないなあと。
その複合的なものって結局何なんだろうなあと思い詰め、煮詰めてみた先に見えるのは、たぶん、「自分」というものなのかもしれないなあ、と思うようになった。

「私は自分を好きだ」なんてことは、どう考えても人前でも自分ででも一番言いたくないことだし、人が自らそう口にしている姿も、なんだか気持ちがざわついて、目撃したいとも思わない。

なんでかというと・・・これを口にした時点で、そこにはコミュニケーションがなくなってしまうからだろうな。
これに賛同することも、否定することも、できない。
「なぜ?」と聞くことさえ、難しい。
「なぜ?」を無色透明に発することがほとんど無理だろうから。
たぶん、否定のほうに一瞬で転がり落ちる問いにしか、ならないだろうから。

「私は自分を好きです」は、なんでそうまで、「悪者」なのか?

「私は自分を好きです」は、なんでそうまで、「悪者」なのか?
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e0129547_12431791.jpg昨日の午後、嵐になるかもしれないと思いつつ、行ってきました。あんざい果樹園でのライブ。

テニスコーツはこれまでに2度ほど見たことがあるけれど(一度は大阪だったかのダブルオーケストラで、一度は飴屋×大友×テニスコーツで)、今回ので、はじめて、サヤさんの声にKOを食らった。

いつも思うんだけど、母音と子音、どっちが「エロ」かと言ったら絶対後者だ。
それは、子音が、身体の中を空気が通ることの証拠だからだ。
子音が強く聞こえると、その人の身体を感じる。だから、場合によっては「エロく」聞こえる。

サヤさんの声が不思議でとってもオリジナルなのは、丁寧に聞くと明らかに子音がとても強いのに、それが単純に、短絡的に、狭義の「エロ」に直結されないからなのかもなあと、昨日ライブを聞いていて、思った。
むしろ、身体というよりも、楽器を感じさせるのかも。彼女の声は。
爪弾けば音の出るギターの弦みたいな。叩けば音のするピアノみたいな。空気を通すと音の出る、一つの楽器としての、サヤさん。
ギターっていう楽器を私が好きなのは、弦がむきだしなせいで、そこに何かが触れない限り音がでない、何かが触れたから音が出るんだ、というシンプルな原理の実践を、目の当たりにできるから。
何かと何かが触れるためには、そこには何かが「あって」、その何かが「動いて」いなければならないから。
というかつまり、そこになんらかの「エネルギー」がある証拠が、音が出るということだから。
なんか、それに相通じるシンプルさが、あるんだな、彼女の声には。
そのシンプルさを充分に味わって耳が慣れてきた頃に聞こえてくる、西洋音階どおりのメロディーラインの、強いこと、強いこと。耳の感度がものすごく上がっているところだから、本当に、酔いそうなほどすてき。

e0129547_12433877.jpg昨日の彼女の衣裳も、とっても自然でよかった。
物販があったので、↓これを買って帰宅。今、聴きながらこれを書いている。
りんごを入れるプラスチックのケースを積み上げた舞台の上の、大友さんとサヤさん。小さめに、いれときます。

あ、そうそう。天気予報では落雷や嵐かも、ってい言われてたけど、ライブが始まる17時頃には、雨は上がって、日差しが。虹もでてた。
風は、強かったけれども。

ちょっとナイショで・・・
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いろいろと予定も詰まっていたりなんだりしているのだが、どうしても初日に見ておきたかった「希望の国」に行ってきた。
公式サイトを見ただけだと、この映画のよさは見えないのではないか。
「それでも世界は美しい」という言葉でくくろうとすると、そこからほとんどのものがこぼれ落ちてしまうと思った。
以上すべて、作品を賞賛しているつもりで書いている。

内容に踏み込んだことは書く気はないけれども、以下、お読みになりたい方だけ。

お読みになりたい方だけ
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今回、帰国は9月4日の予定。
昨日から、この「かたログ」というやつを聴き始めているのだけれど、濱口作品を立て続けに何度も観た直後に聞くと、ものすごく味わい深い。面白い、という言い方でいいのか、わからないけれど、引き込まれるものがある。

東北の津波で被災した人々をカメラがとらえるドキュメンタリー映画「なみのおと」を制作するにあたり、濱口、酒井両監督がその都度の思いを言葉にしてログに残した、「かたログ」。
今、第0回のを半分まで聞いたところなんだけど、次のようなことを、両監督が、言っている。
被災した人から、「すべてが、ぜんぶ、ものになって、しまった」「もともとは家だった 暮らしがあった」「でも、それがただのものになってしまった」というこえをきいた
われわれが生きている世界は、ただのもの、の世界のはずなんだが・・・
でも、こういう声を耳にして逆に理解した われわれが生きている世界というのは、そもそも、「ただのもの」の世界ではないんだな、とと
このくだりを耳にして、帰国後できるだけはやく、もう一度新潟の「水と土の芸術祭」の「大友良英×飴屋法水たち」の作品を見に行かないといけないと思った。
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このエントリの写真はいずれもこの展示作品からのもの。いずれの写真にも映っていないのだけれも、壊れた耕運機?みたいなものに、破砕されたガラスが、いっぱい乗っている、そういうオブジェが、この展示には、含まれている。
これらのガラスはかつて、何か、「ただのもの」ではなかったものの、パーツとして、用いられていたはずだ。
なぜなら、ガラスは外見上、人工的に加工されてはじめて、ガラスの特質を帯びるものだから、だ。
破砕されたガラスは、かつてそこにあった、「ただのもの」ではなかったものが、もう、そこにはなくなってしまったんだ、ということと、そしてももうひとつ、その「ただたもの」ではないものが、かつてはあったんだ、ということを、見る者に、教えてくれる。

やっぱり、「濱口竜介」と「飴屋法水たち」は、どっか、つながってる。
というか、「飴屋法水たち」的なものが、一人ぼっちじゃなくって、ほんとによかった、という気持ちかなあ、今。
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2007年12月にお邪魔して以来久しぶりで、フランスの指導教授のお宅に行ってきた。
10月に来日講演をいただくことになっていて、その内容を詰めるための打ち合わせ。

あのお家に最後にお邪魔してからもう5年ちかく前になるんだな。
博論の公開審査が2008年2月。そのふたつき前の12月にお邪魔した時は、論文の最後の最後の詰めの段階だったから、本当に緊張した。
実際に書き始めたのはたしか2005年の終わりで、足掛け2年でどうにかこうにか仕上げたけれど、以来最後の最後まで、「こんなんで先生から三行半を突きつけられたらどうしよう…」という疑心暗鬼から解放されることがなかった。
なんとまあ、心持の違うことか。
13時から18時半までノンストップでずうっとおしゃべりしていたが、楽しかった。
娘と母親とが仲良く話してるのとあんまり変わらない状態。

心が枷にはめられていない状態で話すということが、ものすごく大事なんだなと、改めて思う。
で、実は、この枷のなさには別の事情が絡んでいることにも、自覚的であったりする。

一つ目が、今年度は担当の講義科目に異様に力を入れていた、ということ。
力が入っていたからといって、分かりやすかったとは限らないんだが…。
けれど、とにかく今回は、言いたいことがあった。
私は、「言いたいことを言っちゃうやつ」と思われている部分もあるかもしれないけれども、たいていそれは、意識的にやってるわけじゃない。
「言いたいことを言う」のが、とにかく恥ずかしい。みっともないとさえ思っている。
だからツイッターでも、あんまりにも無防備なことを言っちゃうと、5分後に消したりとかする。
けれども、今期の授業では、「言いたいことを言う」ことを、意識的かつ継続的に、自分に強いた。
ので、非常に、つらかった。
何を言いたかったかというと。
演劇を見ているとき、私は、あなたは、いったい何を信じているのでしょう?という問いを投げ続ける、ということがやりたかった。
どうしてもフィクティヴな要素が介入してくるに違いない演劇という枠組みにつきあいながら、そこに、たしかに、なにかが「ある」と思えるとき、私たちはいったい、何を信じているのでしょう?
(あ、言いたかったことじゃなくて、やりたかったこと、だな)
この問いを常に念頭におきつつ、ジロドゥ、ルソー、コルネイユ、プラトン、アリストテレス、モリエール、飴屋法水、阿藤智恵……を、考えてみたかった。
「問い投げ続け」ギプスを4か月はめ続けてきたことで、心の筋力が、少々ついたのかもしれない、と思う。
ただ、心のとはいえ筋力は鍛え続けないと弱るから、ここで手綱を緩めないほうがいいのだけれど。

もう一つが、この授業が終わった直後から8月7日まで通い始めた、「濱口竜介レトロスペクティヴ」だ。
全部で6作品を見たけれど、どれもこれも、観終わって町に出ると、身体を風が通り抜けるような気持ち良さがある。遊び疲れてべったりと汗をかいた少女と、帰りの電車の中で肌がびったりくっついちゃっても、「うざい」「きもい」と思わなくて、なにやら彼女がいとおしくさえなる。

さっき、先生と4時間しゃべり倒してパリの街へ出たら、なんだかむしょうに歩きたくなって、むしょうにしゃべりたくなった。
道を尋ねたお兄さんと、目的地まで5分おしゃべり。
道草をきめこんでふらりと入った教会で、懺悔に来ていたお姉さんと、スモールトークを5分。
これからもう二度と会うことのないこの二人とのそれぞれの別れがミョーに愛おしい…って私はやっぱりビョーキか!? 
いやそんなこともないだろう。

折も折、「濱口竜介レトロスペクティヴ」の最終プログラム、「親密さ」オールが、札止め満員御礼となったのって、そのころあいだったんじゃないか?
そもそもこれに行くように勧めてくれた大学の後輩が、満員御礼につきチケットが買えなかった!らしく、それはとても残念なことではあった、のだけれど。

でも、何人か、私にとって近しい人を含む数人が、今この瞬間、「親密さ」後半を見ている、らしい。
あとで、感想をしっかりと聞かなくちゃ。
あの作品を見ながら、あの熱気ムンムンの会場でほかの観客と時間を共有しているとき、あなたはいったい何を見、何を信じていましたか?と、そーっと聞いてみたい。

そんなわけで、今日はなんだか、いい日でした。
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前回のエントリに書いた、
要するに、登場人物たちと、友達に、なってしまっている、みたいな気分なのである。
このことについて、ちょっと説明を加えてみたいと思う。友達とはそもそもどういう人のことを言っているか、という話だ。

友達ってなんだっけ(ネタバレごく少々ありかも)
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 濱口竜介レトロスペクティヴに通いつめてのべ5日。『PASSION』『何喰わぬ顔』『THE DEPTHS』『親密さ』の4本を、見たことになる。『親密さ』は、Short version とLong versionの両方見たから、合計5本ってことになるのか。

ネタバレあるといけないので隠しておきますね
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