長崎に行ってきました

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3月下旬、長崎へ出張に行っていました。
人生初長崎。
私はもともと、あまり「旅」には興味がないほうです。インドア派です。
でも、今回は、同行してくださった方の素晴らしい配慮や気遣いなどのおかげもあり、実に面白い時間を過ごしました。

キリスト教信者の布教が本気で行われた場所。
キリスト教排斥が、本気で行われた場所。
昔から、中国や韓国との関わりが深かった場所。
だからこそ華僑もたくさんいて、中華街も、りっぱな唐寺がある場所。
江戸時代、出島が置かれた場所。
港があり、昔から外に向けて開かれ続けてきた場所。
平地がすくなく、勾配の上に居住地が作られた場所。
海援隊が組織された場所。
たくさんの人々が、信仰ゆえに苦しみ続けた場所。
海の幸が豊富で、世界中の料理が食べられる場所。
60年代風の純喫茶がまだたくさん残っている場所。

ここに生きた人々が抱いた夢や希望の大きさ、広さにも、ここに生きた人々の苦しみや覚悟の壮絶さも、
どちらもスケールが大きすぎて、「劇的」であることこの上ない町。

でも。
私の最近のテーマは、それ自体ひとつの出来事にすぎない(たとえ大量殺戮でさえも)ものに、ドラマの文脈でお化粧をしたくなる思いに徹底的に抗って、その出来事そのものの輪郭を見極めるという挑戦です。
簡単ではないのだけど、腹をくくると、少しずつ、できるようになるのではないかと思っています。

ドラマの文脈とはつまり、その出来事に対して、他者になろうとする運動の産物だろうという気が、私はします。
私は、その出来事に対して、常に主体的にいたい(追体験する、という言葉さえも、ドラマ化に吸い寄せされてしまいそうで、私は使いたくない)。

例えば、納得して殉教したキリスト教徒がかつていたとするなら、その「納得」の内実を自分のこととして理解したいし、納得するどころか騙されて辱められて殺されたひとがいたとするなら、そこにどんな感情が渦巻いたのかを自分のこととして考えたい。人知れず餓死させられた人がいたら、それを可愛そうだと思わずに、死ぬ間際まで身体が否応なしに持ち続けたに違いない「生」への志向のバトンを想像し、受け取りたい。

今、たまたまキリスト教徒のことだけを例に出しましたけれども、それ以外のどんな人々に対しても、こういう思いは変わらないなあと思いました。

「かわいそう」という思いに、ここ数年、興味、価値も見失いつつありましたが、長崎で見聞したさまざまが、この傾向に、ぐぐっとさらに踏み込ませてくれたかなあと、そんな気がしています。
「かわいそう」かどうかは、本人の問題なんだ。ほかの人が決めることではない。
本当に大切なものは、まっさらな「それ」の、その向こうにだけ、ある。

そんな思いを抱きつつ、仙台に戻ってきました。
さて、新学期です。
仕事の山に押しつぶされそうになりつつ、それでも自分の固く長い軸を、大地に深く深く差し入れて、大きくまた一歩を踏み出したい、2016年度です。

写真は、長崎のブティック「亀山社中 日英同盟」で出会った、仙台の作家さん作のペンダント。テーマは「宇宙」だそうな。今はじめた修行が一区切りつくまで、しばらくはこれをつけてます。
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by apresthese40 | 2016-04-02 19:48 | よしなしごと | Comments(0)