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服部智行&岩井主税トーク(UPLINK)

服部智行&岩井主税トーク(UPLINK)_e0129547_0462818.gifUPLINKで上映中の『音の城 音の海』のアフタートーク。監督の服部智行さんと、『KIKOE』の監督の岩井主税さんが、お互いのお仕事について話してくださった。
「音遊びの会」で撮影がかぶったという縁で関わりができたというこのお二人の、超・共通点は、仕事の量と密度の凄まじさとまったく不釣り合いな、穏やかで柔和そうな物腰だ。岩井監督の、『KIKOE』の撮影にかけた労力と時間、そして編集作業に入った後の壮絶なエピソードは、VACANTでの横浜聡子監督(『ウルトラ・ミラクル・ラブストーリー』)とのトークや、『KIKOE』メイキングにまつわるガチンコトーク(大友さんに、大谷能生さんを加えた3人によるもの)でお聞きした。服部監督も、被写体となる会のメンバーたちの予測不能な動きについていく難しさを実感するなかで、撮影のたびに毎回自腹で東京から神戸に通い(3台のカメラとクルーも一緒だとすれば、ほんと大変な出費)、合計して150時間分くらいの映像をカメラに収めていったというから、こちらもまたすごい仕事量。それなのに、お二人とも、険しさというか、威圧感というか、そういうものがゼロ。大友良英さんが、世界的に活躍している音楽家でありながら、ご本人には、そういう「すごい人」としてのオーラが見事にナッシングな、何とも言えない稀有な空気感をかもしているのと、どこか相通じる感じがする。
音楽という、視覚情報を介在させることなく伝達される表現について、映画という、視覚なくして語れない表現方法の中で語るというか伝えるというか、そういうことを『KIKOE』でやり遂げた岩井監督と、知的障害をもつ人々によるコンサートという、文字通り一発勝負の一過性の出来事を、二次元の複製芸術である映画という枠組みの中に落とし込んでいながら、岩井監督に「『音の城 音の海』を見たとき、撮影現場に居合わせた自分が記憶しているあのイベントそのものを、もう一度見たと感じた」と言わしめるようなリアリティを映像の中に再構築することに成功した服部監督。いずれも、被写体となったものに丁寧に寄り添い、「撮る」「編集する」という行為の偶発性と必然性の両方を最大限に生かしつつ、被写体あるいは設定されたテーマにおけるなにか本質的な部分を、作品中に丁寧に取り出してみせている。
今日、トークを聞きながらちょっと感動!したのはまず、お二人と、「カメラ」というツールを、きちんと信用しているんだなあ、ということ。撮影されたものを編集しなおす作業は、それこそ睡眠時間を削る大変さだと思うけれど、その大変な作業をやり遂げる前提には、自分の撮影した映像は、それをつぶさに眺めなおすことによって、自分の伝えたい情報を再構築できるだけの強度があるのだ、という信念があるのだろうなと思う。大友良英さんが、「ギターを弾くのが大好き」と言い切るのと似た、カメラに対する信頼感が感じられて、なんかすごくすがすがしい。やっぱり、映画監督にはカメラを信じてもらいたいし、音楽家には楽器を信じてもらいたいし、演劇人には上演空間を信じてもらいたいし、作家には言葉を信じてもらいたい、とわたしは思う(いやまあ、4つの例が、全部同じ俎上に乗せられるものかどうかという問いは、すごく大きいけどまあ置いとくとして…)。
そしてもうひとつ、たとえばイベントやコンサートあるいは舞台芸術といった空間芸術と、二次元の表現手段である映像との接合面のあり方を、この二人はそれぞれの方法論や哲学をその都度更新しながら探し出そうとしているのだなあということもまた、印象的だった(とここまで書いたところで大野一雄さん死去のニュースが飛び込んできた。時代の曲がり角、節目、過ぎ去った時代、新しい時代の見えなさ、そんなことを考えざるを得ない、あまりにも大きなニュースだ)。従来、舞台芸術は一瞬の幻で、消えてしまったらそれで終わりだけど、映画は繰り返し見られる、ということが当たり前のように言われてきた。でももしも、映像が、舞台芸術に丁寧に寄り添ってくれることで、幻でしかあり得ないはずの舞台芸術の一種の等価物のようなものを、映像のなかに落とし込むことができたら。それこそ、映像のなかの大野一雄が、二次元の存在でしかないながらも、その映像なりのリアリティの輝きを放つ、ということができたら。そこには、映像と舞台芸術は、決してイコールではありえない、ということをはっきりと言い切る丁寧な覚悟が必要なのだと思う。それは、今日岩井監督もおっしゃっていたけれど、二つの間に何らかの翻訳機を想定することなのだろう。その翻訳機は、はっきりと、一台しかないものなのであって、だからこそ、その仕事は究極のオリジナリティを必要とするのだろう。一度出来上がった翻訳機が、べつの二つのペアの翻訳にも流用可能ということは、たぶん、ない。いやないとは言い切れないのかもしれないけれど、少なくとも、文章の翻訳みたいに、「翻訳家」っていう人がいて、その人のところにオートマチックに仕事が行って、みたいな流れが、空間芸術を二次元に移し替える「翻訳家」にも同じように出来るとは、ちょっと、考えにくい。
岩井監督は今、空間芸術の撮影し映像化する、ということをしているのだそうだ。それが「うまくいくかはわからない」と本当に不安そうに言っておられたのが、とても印象的だった。システマティックに方法論を構築できるような、簡単なことではない、ということなのだろうと思った。飴屋法水さんがしきりに「わからない」とおっしゃる「そっけなさ」と、岩井主税監督のあの「わからない」の「誠実さ」は、似ていると思う。
服部監督はこれから先、商店街を被写体とした映像を作る予定だということだった。「音の城」の、ひとつの建物の中のあちこちで同時発生的に起こる音と関係性のオーケストラの立体感と、「音の海」の、対面式舞台によるイベントでありながらどんどん形を変えていく演奏空間の柔軟性と予測不可能性を、二次元の中に切り取るという逆説を実現した服部監督が、商店街という、肉眼によるひとつの視点では切り取れない細さと長さをもつ空間(しかもそこには、予測不可能な「生」がたくさんひしめいている)に、どんなふうに向かっていくのか、こちらも興味シンシンだ。
6月5日には、大友さんがUPLINKに来て、即興でライブがあるという。「音の海」で極めて印象的な役割を果たしたとあるパフォーマーとのセッションだ。これをきちんと目撃するために、ライブの前の回、もう一度映像を見ておかねば。時間パツパツだけど、どうにかして、これは、実現したいぞ。

追記 言葉足らずのところがあったかもしれないので、ちょっと追記を。わたしは、言葉を翻訳する仕事が、三次元を二次元に「翻訳する」仕事より簡単だ、などとちっとも考えてはいない。二つの異なるものの間に身を置いて自らが切り裂かれるような不安を感じながらも着地点を探そうとする痛みと信念において、両者はむしろ同じなのではないかと想像している。
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